第258回 【 画家ボナールx 写真家ボナール 】
10月10日号
  パリへ行ったら、一度はルーブル美術館へ。だが、その巨大さが苦手の方には、印象派を中心に展開するオルセー美術館が人気のようです。
 そのオルセーの2015年の企画展『ピエール・ボナール展』は、51万人が観覧。前年の『ゴッホ展』に次ぐ開館以来2番目の人気だったそうです。
 グラフックアートから出発し、初期には日本の浮世絵から強い影響を受けて「日本かぶれのナビ」といわれた。
 浴室の裸婦を多く描いて、睡蓮のモネや豊満な裸婦のルノアールと親交を持ち、マティスが高く評価しましたが、ピカソからは「優柔不断の寄せ集め」と非難されたボナールの仕事の全貌を、いま、東京で見ることができます。(国立新美術館・12月17日まで)
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 近年に再評価されるまで、ボナールは、ピカソの言うように中途半端な印象がもたれていました。2人は共に19世紀の世紀末に青年時代をおくり、2つの世界大戦に翻弄されました。ピカソは戦争の悲劇「ゲルニカ」を描いたが、ボナールには戦火の匂いすらありません。
 「女性の魅力は、画家に自身の芸術に関する多くのことを明らかにしてくれる」と言ったのはボナールですが、8人とも10人ともいわれるミューズを次々に変えて、そのたびに劇的に絵を変化させたのはピカソで、ボナールは1人+αのミューズのもとで、生涯、「視覚と光の奇蹟」を探りつづけたのです。
 ボナールが生涯の伴侶となるミューズに出会うのは1893年、26歳の秋でした。マルト・ド・メリニー、自称16歳。紫がかった青い目、華奢な身体。二人はまもなく、パリ郊外の家でいっしょに住むようになる。そこで彼らはエデンの園さながらに、お互いの自然な姿を写真に撮るのでした。
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 ちょうどそのころ、イーストマン・コダック社が、柔軟なフイルムを使う蛇腹式折りたたみカメラ、「フォールディング・ポケット・コダック」を売り出しました。写真は、ガラス乾板を使う専門技術の必要なカメラから、一挙にアマチュアのものになったのです。 これは写真界最初の革命といえるでしょう。100年後の現在、スマホカメラが出現して第2の革命が起こり、写真の概念を変えていることを思えば、ひろく映像に関わる画家やデザイナーに与えた当時の影響の大きさも推測されます。
 ボナールはいち早く購入したのです。
 そうして撮られたボナールの近親者や友達の写真、マルトの自然な姿態を撮った写真など、250点が、1987年、オルセー美術館開館の折りに、ボナールの遺族から寄贈されました。その貴重な写真を見ると、自然で生き生きとした描写、こだわらない構図、ボケの巧みな応用など、ボナールが一流のフォトグラファーだったことに驚かされます。もちろん、オートフォーカスもなく、感度は低く、露出は自分で考えて決めなくてはならなかった時代です。
 1910年ごろに撮られた、『浴盤にしゃがむマルト』は、10年後、代表作の一つ、『浴盤にしゃがむ裸婦』として蘇るのです。
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 1920年ごろ、ボナールは金髪のルネ・モンシャティと知り合い、恋に落ちます。マルトは嫉妬して結婚を迫ったそうです。このころから、なぜかボナールは写真をぴたりと撮らなくなった。
 ボナールはピカソのように容赦なくミューズを変えることができない男でした。1925年、マルトと結婚。そのとき初めて、マルトが孤児で、本名がマリア・ブルゾン、出逢ったときの年齢が24歳だったことを知ります。
 結婚式の直後、ルネは自殺。ボナール58歳でした。ボナールは主に風景画を描くようになります。
 1940年、ドイツ軍はパリを占領。ボナールたちは南仏のル・カネに住み、42年、マルトは先だちます。ドイツが降伏した45年5月、7年ぶりにパリへ戻りました。
 47年、2つの大戦の間を80歳まで生きました。
 
写真上 『浴盤にしゃがむマルト』(1910年ごろ作)オルセー美術館蔵
写真下 『浴盤にしゃがむ裸婦』(1918年作)オルセー美術館蔵

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