第254回 【 [1968] いちご白書をもう一度 】
6月10日号
左端は秋山勝行・全学連委員長 このあと、4月に逮捕される。

  日大事件がまだ終わらない。たかがアメフット部の出来事だったはずが、学生や教職員が発言を始めて、社会的な問題になった。 1968年の日大紛争に似てきた、と思われる方も多いだろう。理学部教授が裏口入学を斡旋し、その謝礼の脱税から、日大本部の使途不明金が発覚。学生や父兄、教職員が抗議行動を起こし、「日大闘争」に発展した。
 当時すでに学生数8万人を超える巨大な大学だったが、教員不足など劣悪な教育環境に学生たちの不満が溜まっていたといわれる。
 当時の日大会頭は、日大病院に偽名で入院したが70年に亡くなった。紛争後、入学者は激減、定員割れがつづいたという。
 東大では、同じ年の1月、医学部が無期限ストに突入した。
 すでに慶応、早稲田でも学費闘争のかたちで大学の教育改革を迫る学生運動が始まっていた。'68年には、全国の大学の80%に当たる165校で紛争が起こり、70校がバリケード封鎖された。
 アメリカでも、4月、コロンビア大学で学生のストライキが起こる。大学が国防省と共同で軍事研究を行っていることへの抗議だった。ベトナム戦争の泥沼化やキング牧師暗殺などが背景にあったはずだが、D学部長が〈学生が好むいちご〉のようなものだ。と発言して、軽く見ていた。のちに『いちご白書』のタイトルで書かれたノンフィクションをもとに映画にもなった。
 フランスでは、ナンテール校でベトナム戦争反対の学生委員5名が検挙されたことをきっかけに起こった運動に、労働者がゼネストで呼応し、のちに5月革命と呼ばれる事件に発展した。
 既成秩序と権威への疑問や不満が世界中で奔流となって堰を超えたのが1968年だった。
 「5月革命」などと呼ぶのは日本だけ。フランスでは単に「5月の出来事」に過ぎない。この時代の学生運動は、自己満足のおろかな祝祭でしかなかった。という学者もいる。
 確かに学生は暴走した。パリでは市民が離れ、軍隊が出て鎮圧された。日本では赤城山事件、あさま山荘事件で凄惨な最後を迎えた。
 バリケードの中で一瞬の青春を謳歌した「5月の王さまたち」は、急速に時代の波にのまれて去っていった。

ノーベル賞受賞の川端康成先生と吉永小百合さん。

 むしろ変革を遂げたのは〈文化〉かも知れない。カウンターカルチュアの旗手たちが、さまざまな旗を翻した。寺山修司は「天井桟敷」を、唐十郎は「紅テント」を前後して立ち上げた。美輪明宏は、蜷川幸雄の初演出で、主演デビューした。
 新宿文化の舞台で、衣裳を担当した川久保玲はコム・デ・ギャルソンを立ち上げ、高田賢三はパリにブティックをオープンした。
 今村昌平監督は「人間蒸発」を完成。大島渚監督はカンヌ映画祭に乗り込んだが、ゴダールやトリフォーの殴り込みで中止になった。
 10月、川端康成はノーベル賞を受賞。
 岡本太郎は大阪万博のシンボル、太陽の塔の制作に入る。

美輪明宏さん

 青春とは、理想を追う季節のことだという。とすれば、'68年ごろは、'64年東京オリンピック後の不況が若者たちを直撃した冬の時代を突き破って、半分青い芽がいっせいに吹き出した春の時代だったともいえる。
 '68年は、高度成長の端緒となる年でもあった。
 春は終わり、人間なら壮年にあたる夏、赤く燃える朱夏の時代が来た。
 壮年はやがて老いる。イザナギ景気が陰り始める白秋の終わりに、リーマンショックがきて、時代は暗い冬の時代に移った。
いま、2020年オリンピック前のつかの間の陽差しを浴びているが、オリンピック後には生き難い厳寒の時期がつづくと思わなければならない。
 暗い玄冬のあとの、青い春の芽吹き、「いちご白書」の季節が再び巡り来ることを願いながら……。

(写真はいずれも「青春1968」より・彩流社刊3200円+税)
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