第234回 【ダリってダレ?】
10月10日号
 ヒント
1) ぐにゃりと垂れ下がった時計。
2) ぎょろ目で針金ひげ。
もちろん、スペイン生まれのシュールレアリズム(超現実派)の画家、サルバドール・ダリですね。

 六本木の新美術館で「ダリ展」を見ました。スペインとアメリカの美術館などから250点が日本で終結! だそうです。
 入ってすぐ、オヤッと思ってしまう。並んでいるのはダリらしい奇怪な夢のような絵ではなく、印象派の点描もどきだったり、板切れを並べたキュビズム(立体派)的表現だったり、あきれるほどピカソそっくりの絵も・・・。
 天才ダリといえども、若いころはいろんなアーチストの影響を受けて、成長していたんですね。

ダリと
     ピカソ

 1926年、ダリは同じスペイン出身の画家ピカソに会いに、パリへ行きます。
 ピカソはすでに人気作家になっていて、ポール・エリュアールやアンドレ・ブルトンなどとともにシュールレリズムの中心となっていました。
 ダリは、マドリッドの学生寮でいっしょだったルイス・ブニエルの映画「アンダルシアの犬」の脚本を書いたりしていましたが、まだ22才。そうそうたるアヴァンギャルドの第1線の戦士たちに会って、強い影響を受けないはずがありません。
 このあと、ダリは独特なシュールレアリズムの作家として名をなすようになるわけで、そのことがよく分かる展示でした。
 当時45才のピカソは、マリー・テレーズ・ヴァルテルをモデルに、精力的に制作していました。パリのデパートの前で見かけて、「あなたの肖像を描きたい。私はピカソです」と誘ったブロンド、ブルーの眼の17才の少女です。恋人の変遷といっしょに描く絵も変遷していったピカソの、いわば黄金期でした。ダリは圧倒されたはずです。
 ダリは、パリで会ったエリュアールの夫人のガラと愛し合うようになり、のちに結婚して、生涯をともにしました。
 1936年、スペイン内乱が起こり、ピカソは翌年4月、バスク地方の町ゲルニカがドイツ軍から無差別爆撃を受けたことを知って、パリ万博のための大壁画に取りかかります。
 戦争の悲惨を描いて反戦のシンボルとなった「ゲルニカ」。乳飲み子の屍を抱いて絶望する女はマリー・テレーズを、爆撃に泣き叫ぶ女は、次の恋人でマリーとつかみ合いの喧嘩をしたドラ・マールを描いた、と言われています。
 ピカソは、第2次世界大戦中も、ナチ占領下のパリで制作を続けますが、ダリはアメリカへ逃亡、デパートのショーウインドーや宝石のデザインなど、商業的な仕事をします。
 しかしダリは、1945年、広島への原爆投下を知って、「ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌」などを描きます。あのぐにゃり時計は、爆撃機と爆弾に倒れる女性の顔にへばりつくように描かれていますからぜひ会場で見てください。
 さらに、ビキニ環礁の核爆発実験のあとでは、キノコ雲と人間の頭部のダブルイメージ「ビキニの3つのスフィンクス」を描きました。

写真(上) 「ビキニの3つのスフィンクス」(1947年)
写真(下) 「電話(ピン)」高さ45ミリ。金に緑と赤の宝石。

【ダリ展】 国立新美術館(六本木) 12月12日まで(休館日火曜)
観覧料 一般1600円、大学生1200円、高校生800円   問い合わせ 03-5777-8600

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