第222回 150年前の西洋料理 グラバー亭の食卓
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トーマス・ブレーク・グラバーが来日したのは、日本が開国して間もない1859年のことだった。そのときわずか21歳。父親がスコットランドの1等航海士だったというから、海へのあこがれがあったのかも知れない。
学校を卒業して、上海のマセソン商会へ入社後、「長崎代理人」として長崎へ来る。が、2年後には「グラバー商会」を設立し、本業のお茶の輸入だけでなく、武器弾薬を扱うようになる。時は幕末の動乱期。販売先は討幕派が中心だが、幕府側にも売った、ともいわれる。
1860年代は、明治維新という革命が起こった、日本の歴史上最も刮目すべき時代であることは周知の通りだ。
同時に、この10年間こそ、グラバーが最も活躍し、最も儲けた年代だった。この政変の渦中に、日本で初めて蒸気機関車を走らせ、日本初の蒸気動力の修船場(ドック)を作り、大規模製茶工場を建設し、高島炭鉱の開発に関与した。グラバーが自宅を建てたのも1863年のことである。
1870年、動乱が収束して武器が売れなくなったことなどからグラバー商会は倒産する。しかし、グラバー自身は高島炭鉱の経営者として、また、岩崎弥太郎の三菱の相談役として、ブルワリーの買収に関わってキリンビールの基礎を作るなど、三菱財閥の基礎固めに寄与した。
長崎湾を見下ろす広大な丘、というより、ひと山を丸ごと占めるグラバー園。その一角にある旧自由亭は、1863年に日本初の西洋料理店を移築したものだが、当時のメニューを文献などを元に再現した料理がいま陳列されている。
カモの丸焼き/浜焼きの鯛/豚の塩こしょう刷り込み焼き/伊勢エビのスープ/鹿の股の丸焼きと唐揚げ/鶏、椎茸、蕪の煮込み/鶏、胡椒、ナツメグ、蕪の紅毛紙包み焼き/ほうれん草をみじん切りにし、バターであげ、4つ切り卵をつける/窪んだフライパンで焼いたパンケーキ
ここからデザート。
リンゴの赤ワイン煮/卵と小麦粉を水で練りまぜ、引き延ばして飴のようにねじり、油で揚げたお菓子/カボチャ、ニンジンなどのタルト
いちいち名前がついているが、舌を噛みそうなので省く。
幕末の立て役者、坂本龍馬が活躍したのは、グラバーの財政的後押しがあったから、という説もあるが、2人はこんな料理で会食したのだろうか。龍馬は維新を見ないうちに31才で暗殺されるが、2才下のグラバーはその後も日本に残り、71才で生涯を閉じた。
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