第205回 「花子とアン」と富岡製糸所 絹の時代の光と影
5月10日号
  明治1,2年の日本の貿易は、生糸関係が実に輸出総額の60%を占めていた。維新まもない政府にとって、生糸は貴重この上ない戦略産業だった。明治5年(1872年)、フランス人ブリュナを指導者に迎えて官営の富岡製糸所を建設した。
 5月に糸繰りの工女の募集を開始。しかし、応募はゼロだった。フランス人が赤ワインを飲むことから、生き血を吸われると言う噂が広がっていたのだという。
 政府は、各地の行政担当に13〜23歳の女子を差し出すべし、と通達した。信州松代藩の150石の武家で、藩体制が解体したあと郡奉行をつとめていた横田数馬にも16名の割り当てが来た。
 やはり応募者はなく、数馬は次女の15歳の英(えい)を差し出すことにした。横田一族では分家に不祥事があって、名誉挽回の意味もあった。人身御供のようたが、英は、新天地に夢をはせて、むしろ積極的だったという。近い将来英が嫁ぐことになっている和田家の娘も参加することになり、どうにかノルマの人数をそろえることができた。
 富岡製糸所は12月に開業。翌年3月、富岡に到着した英たちは、煉瓦作りの建物と近代的な設備に驚いた。「一同は夢のように思いまして、何となく恐ろしいようにも感じました。」と、英は後に「富岡日記」の中で回想している。
 富岡製糸所の設立は、外貨獲得の国策であると同時に、近代化の象徴であり、没落士族に対する授産事業でもあった。工女の30%が旧士族の出身で、旧華族の子女もいた。
 工女の月給は無欠勤の場合、1等工女が1円75銭、2等1円50銭、3等1円だった。英と同じ松代から来て同室で暮らした平民の春日蝶の手紙は、英の回想に比べてリアルである。彼女は頭痛のため欠勤が多く、「8月は30銭しか貰えなかった」などと、親元へたびたび送金を頼んでいる。ちなみに、フランス人の女性指導員は100〜136円。首長のブリュナの月給は600円であった。
 労働条件は、電灯のない時代だから季節によって違うが、平均1日8時間以下で、休みは日曜を含めて年間71日、世界的に見ても好条件といえた。
 明治8年、英は松代へ帰り、父たちが立ち上げた製糸会社の指導員となる。その六工社は、フランス式にイタリア式を取り入れ、ぴかぴかの真鍮製ではなかったが、効率はきわめてよかった。何より建設資金が、富岡20万円に対して2863円。同じ100人繰り、一釜あたりの資金は富岡2000円に対して57円、水車利用の中山社では13円50銭だった。視察に来たブリュナは驚いて逃げ帰ったという。
 製糸業は日本中でブームとなった。フランス人の法律顧問ブスケが、彼女たちは「クモの巣でも壊さずに糸を紡ぐことができるかもしれない」と驚嘆した技術と、おそらくは価格の安さで、まもなく日本は世界の生糸生産の3分の1を占めるようになった。そして、昭和の初期まで対外輸出の3分の1を稼ぎ続けた。まさに「女工弱いと誰そんなこというた 外貨(ぜに)を稼ぐのは女工だけ」であった。
 日清・日露戦争を控え、外貨はいくらあっても足りなかった。
 このころから工女たちの労働環境は悪化してきた。富岡でも1日の就業時間は10時間以上となった。長野県の某工場の6月後半の就業規則では、4時05分警醒、4時30分就業、6時から15分間の朝食のあと仕事に戻り、昼食は10時30分から15分間、以後、3時30分から10分間の小憩を挟んで終業は7時30分。労働時間は14時間であった。今でいうブラック企業であるが、当局の取り締まりはむしろ非をとなえる労働者側に向けられた。
 農村は疲弊していて、飢餓状態が続いていた。農家は口減らしのため12,3歳の娘を製糸所へ送って前金を受け取った。この実態は、後に女工哀史と呼ばれ、山本茂美の「ああ野麦峠」は大竹しのぶ主演で映画にもなった。
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 明治27年(1894年)富岡製糸所は三井家へ払い下げられた。官営では採算がとれなくなり、殖産の役目を終えたということであろう。
 その前年の6月、山梨の安中家に長女はなが生まれた。のちの村岡花子である。(NHKの朝のドラマでは安東家、はなを吉高由里子が演じている)。クリスチャンで理想家の父は、娘を東洋英和女学院へ給費生として編入させる。はな10歳。しかし安中家は困窮をきわめていて、弟妹8人のうち、女児の千代とうめ以外はみな養子に出された。はなの教育の犠牲になった、と花子の孫の村岡恵理が書いている。(「アンのゆりかご」)  日清戦争が始まったのは、はなが東洋英和へ入った翌年である。
 はなの父は茶の行商人だったが、ドラマでは生糸の販売をしていることになっている。そして、はなの2歳下の妹かよが、家計を助けるために13歳で製糸所へ入るが、逃げ出してはなを頼って上京、カフェの女給になるストーリーのようだ。実際のはなの弟妹にかよという名前はないが、かよ役はベルリン国際映画祭で最優秀女優賞の黒木華だ。絹の時代の光と影を、こぴっと(しっかり)演じてくれるだろう。

写真 「花子とアン」は、視聴率24.6%と絶好調だ。(NHKスタジオパーク・特設コーナーにて)

オリンパス OM-D E-M5 M.ズイコーデジタル12−50 ミリ F2.8


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