第197回 時の流れを止めて 2013最後のイベント2つ
12月25日号
  「ザ・タイガースは、グループサウンズ全盛の1957〜68年に若者たちのアイドルとして熱狂的に迎えられた。(中略)中学3年生が主体といわれるファンの群れは、深夜のテレビ局の玄関、裏玄関をゲリラ的に襲う。遂に負傷者が出て、NHKやレコード大賞当局が締め出しにかかった。ゲリラの人気で成り立っているザ・タイガースとしては、当然のなり行きだろう。
 彼らは「ルックスが神秘的」「ハートがある」といわれる。全員京都出身で、いずれも昭和22〜23年生まれ。少女のような可憐さで、彼らのヒット曲の「モナリザの頬笑み」のような微笑を浮かべている。そこが人気の秘密であろうか。
 今回の取材に当たっては、まさにゲリラ的な困難さがあったが、これも当然である。
 「アサヒカメラ」1968年2月号に掲載の写真の撮影記である。粋がって何をほざいているか、といわれそうだが、その通り、筆者は駆け出しの青二才のカメラマンだった。(ちなみに編集部が付けてくれたタイトルは「若者のシンボル」。連載第1回は寺山修司さん、最終回は高倉健さんといえば、どんな時代だったか分かっていただけるだろう)
 ザ・タイガースのデビューから解散、その後について、実に多くの人が詳しく知っているのには驚くばかりだ。1966年11月、こだま号で上京してからたった4年、団塊の世代の青春を竜巻のように襲って過ぎていった残像が、いつまでも消えないのだろうか。
 解散後のメンバーの行方は、大河小説でも読むような波乱と感動に満ちている。とりわけピーと呼ばれて人気のあった人見豊は解散コンサートのあと、「一緒にかえろう」と言ってライトバンに乗って京都へ向かったまま一切の連絡を絶った。ピーは「一番やらなかったのは勉強だった」といって定時制高校へ入り直し、慶應大学文学部、大学院を出て、慶應高校の教師へと進んだ。
 連絡を取ろうとしたジュリーは、自分のコンサートで「Long Good-by」をうたう。
「こんなに長い別れになるなんて、あの時は思わなかった
 一緒に帰ろうって言われたけど ぼくはどこへ帰るのか分からなかった」
「君はたぶん友だちに戻ろうって行ったんだね 僕は君の決断がまぶしかったよ」
 ピーは「道」を作詞作曲して応えた。
「こだわったのは何か 分かってる
 友よ 道はある 君がいる
  ぼくの心に 君がいる」
 再会が叶ったとき、タローはいきなり号泣したという。
 そうして、今年44年ぶりにオリジナルメンバーの再結成コンサートが実現した。かつて京都の稚児のように可憐だった彼らも、ジュリーやトッポの髪は白く、ピーの顔も大人のしわに包まれている。
 しかし・・・・、
 団塊の世代の感激をよそに、編集部の若いデザイナーは、「ザ・タイガース」を知らなかった。
 時は過ぎ、時代は変わり、記憶は消えていく。情け容赦もなく。

OXOXOXO

「名取洋之助って、知ってましたか?」と聞かれたのは、島屋の会場でのことだった。PR関係の人だったから知名度を調べるつもりだったかも知れない。急には答えに窮した。筆者も写真家の端くれだから、名前と岩波写真文庫の編集長だったことぐらいは知っていたが、それだけのこと。名取大先輩が遊学先のドイツでグラフ誌に写真を発表していたこと、ベルリン・オリンピックを撮っていたこと、帰国して日本工房を立ち上げ、「NIPPON」というグラフ誌を創刊したこと、さらに名取さんのもとに集まった人材は、木村伊兵衛、土門拳、藤本四八、亀倉雄策、河野鷹思などなど、諸氏についても、今度の展で詳しく知り得たことだ。
 矢のように飛び去っていく月日を、知識は、とどめることが出来るだろうか。
−−−良いお年を!


写真(上) 外側からトッポ・加橋かつみ、ピー・瞳みのる、ジュリー・沢田研二、タロー・森本太郎、サリー・岸部おさみ。
写真(下) 名取洋之助は1932年ベルリンオリンピックの写真を撮っていた。

ゼンザブロニカ ニッコール50ミリ F3.5 トライX
オリンパス OM-D E-M5 M.ズイコーデジタル12~50ミリ



★ザ・タイガース復活コンサート 最終回・東京ドーム 12月27日 入場 16:30 開演18:30 入場料8,000円

★名取洋之助展(同時開催: 名取美和とバーンロムサイ)
 12月29日まで 日本橋島屋 8階 入場料 一般800円 大学・高校生600円 中学生以下無料

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