第188回 潮風に吹かれて深山の霊気を味合う 鵠沼「埜庵」のかき氷
8月10日号
  小田急・江ノ島線、鵠沼海岸駅。駅前の道を海岸へ向かってコの字型に曲がると、大勢の人だかりがあって、ここが、かき氷屋「埜庵」である。テラス風のテーブルは満席。順番待ちの補助席にも7,8人が並んでいて、すぐには席に着けそうにない。
 海風が届くのか、都心から来た者にはほっとする爽やかさだが、それでも暑い。すぐに冷たいかき氷を! のどから手が出るが、がまんして海岸へ向かうことにする。
 住宅地の路地といっていいほどの小道を行く。6,7分で引地川の河口に出る。河岸にはバーベキューの炉がいくつも煙を上げて賑わっている。その先は相模湾のビーチが広がっていて、江ノ島をバックに海水浴客、というより、サーファーたちで溢れている。
 この日は風が無く、波は小さい。沖では波待ちのサーファーがびっしり浮いている。待ちきれずに波をつかまえようとするが、ボートに乗ったときはもう砂浜だ。
 鵠沼海岸は日本のサーフィンとビーチバレーの発祥の地だそうだが、ビーチバレーはともかく、こんなに貧しい波しかなくて、サーフィンとは?
 潮風に吹かれ、陽を浴びて、もと来た道を戻る。鵠沼の鵠は、くぐい(白鳥)のことだそうだから、白鳥たちが住む沼もあったのだろうが、どのあたりか。また、かつては芥川龍之介や谷崎潤一郎、与謝野晶子らが住んだというが、そのころの住宅地はもっと奥の方だったかも知れない。などと考えながら埜庵に戻ると、人だかりも順番待ちの人数もむしろ多くなっている。うーむ、今から並ぶには時間がない。そういえば今日は土曜日、整理券が出ていたんだ。さっきもらっておくべきだった、と後悔したが後の祭り。ホームページに、「行列でお待ちいただく方が、待ち時間は短いのですが、熱中症や交通事故などお客様自身の安全のため今後の休日にはどうしても整理券方式をとらせていただくことになります」と出ていた。人気店だけに、近隣のお店への気遣いもあるのだろう。
 家を出てから4時間がたつ。その間、1滴の水分も口にしていない。駅へ向かい、100円玉を手に自動販売機の前に立つ。色とりどりのペットボトルががんがん冷えているようだ。しかし、どの飲料も飲む気がしない。どれも棘のある飲み物のような気がする。
 電車の冷房に助けられながら、何年か前にはじめて「埜庵」へ行ったときのことを思い出していた。今ほどではないがそのころから人気店だった。かき氷は見た目は特に変わりはない。特別大きなわけでもなく、味も飛び切りどうということはない。しかし、食べているうちに氷が柔らかいことに気づく。冷たいものを食べたときにツーンと鼻の奥を叩くあの痛さがない。癒しというよりも、自然の霊気にからだが目覚めたような心地よさだ。
 ぼくは食べながら、さらに記憶の糸をたぐった。いつか、この感じを味わったことがある。遠い過去に、トレッキングで山登りをしたときに、息を切らしながら谷川の流れに直接唇をあてて飲んだときの、あの山の霊気に触れたような心地よさだった。
 何年か前には、オーナーの石附浩太郎さんから話を聞くこともできた。石附さんは、大学を出て電機メーカーの営業をしていたが、秩父の天然氷製造の4代目蔵元の阿左美哲男さんに出会ってから、毎冬、氷点下の山の中で氷の製造を手伝うようになった。そして「山の氷の前で考えて、会社の方をやめました。勘違いかも知れませんが」といって笑った。「日本の天然氷の蔵元は5つですが、いずれも大変な思いをされています。地球温暖化の影響もあると思います。天然氷がなくなることは耐え難いことです」。それから10数年、埜庵では、あらゆる方法で、天然氷を大切に輸送・保存して確保しているが、連日、天然氷がなくなり次第終了という。(現在は、三ッ星氷室の天然氷を使用)
 潮風を感じながら深山幽谷の霊気を味合う、といったら大げさだろうか。この味わいは、失ってはいけないものの1つだと思う。

 
写真(上) 暑い日は氷の粒を感じるように粗くかく。雨の日や湿度の高い日は細かく雪のようにかく。埜庵は1年を通じて開店。理由は「かき氷屋」だからという。
写真(下) 江ノ島を背景に、サーファーたちの夏。
オリンパス OM-D E-M5 M.ズイコーデジタル12~50ミリ  E-330 14-54ミリ


★埜庵 神奈川県藤沢市鵠沼海岸3−5−11 Tel;0466-33-2500

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