第184回 甘粕正彦憲兵大尉に会いに行く 歴史認識の闇の中で
6月10日号
  日中韓をめぐって歴史認識がかまびすしいさ中、橋下大阪市長の従軍慰安婦発言が火に油を注いだ。一連の問題が指し示すのは、「戦争とはそういうものだから、戦争はやってはいけない」ということであろう。が、戦争利権でおおいに儲かっている人と組織があり、かれらは戦争がなくなると困るのである。自分たちの利権体制を守るためには何でもする。甘粕正彦憲兵大尉の事件は、まさにそのような利権組織を維持する象徴的な事例だった。
 よく知られているように1923年の関東大震災の混乱の中、軍と警察は暴動の取り締まりに乗じて朝鮮人や無政府主義者を拘束した。大杉栄、伊藤野枝と子供も検挙されたその夜のうちに殺害された。当初、行方不明者として処理するはずだったが、子供が大杉の妹の子供でアメリカとの2重国籍を持っていたことから事件は紛糾する。
 スタジオQ第1回公演(麻布区民センターホール)「人は来たりて見よ」(原作・佐野真一、脚本・演出・高畠久)の第1幕は、軍法会議のシーンが激高と忿怒を秘めながら淡々と進行する。控えめな舞台とは逆に、客席には緊迫感が満ちてくる。息が詰まるような静寂のなかで、甘粕は自分個人の意志で、3人を絞殺したと言い張って、軍と警察の上層部に責任が波及することを防ぐのだ。
 のちに、といっても75年たった1999年だが、鑑識医の診断書が公表された。それには、大杉は褌のみ、野枝と子供は全裸で、蹴られ、殴られ、踏みつけられたあとが記されていた。
 第2幕は、支那事変から拡大していく戦争を背景に、満州映画協会の理事長として君臨する姿が描かれる。甘粕無罪を信じる朝日新聞記者は満映を訪れて、「あのとき上層部の犯罪だったことを暴いていれば、軍という組織に監視の目が光って、このように軍を暴走させ、何十万人もの敵味方を殺すことにはならなかったのではないか。あなたの罪は重い」と迫る。
 敗戦と同時に、ソ連軍が侵入してくる中で、社員に退職金を払い、帰国の列車を用意した甘粕は、2人の親友に追求されて「俺は何もやっちゃあおらんよ」と真相を漏らす。自殺前夜のことだった。満員の客席にはすすり泣きの声が漏れる。
 舞台の上に、甘粕がいた。実際の人物を知るよしもないが、そこには疑いもなく、日中韓の歴史認識の闇の中で、夜光虫のような光を放つ甘粕がいた。
 芝居は役者のものといわれるが、とりわけ狂気の役者のものだ。
 岩本巧は、1960年、青森・津軽の生まれ。理科大学で、部活は美術部だったが、演劇部からエキストラが足りないからとセリフなし、立っているだけの役でスカウトされた。
 その秋、岩本は演劇部員として、ムロジェックの『大海原』に津軽弁で出演、好評を得た。翌年には、清水邦夫『ぼくらが非情の大河をくだる時』の演出をしていた。
 それから30年、主に不条理演劇の上演を続けてきた。劇団を作っては壊し、作っては壊し、最後の劇団は「樹海」と名づけた。入ったら出られないの意である。劇団員を拘束すると同時に、芝居は入ったら出られないものと、自覚するものだった。
 収入はすべてアルバイトで得てきた。演劇を志す者は、いつ舞台があるか、いつけいこが始まるか、スケジュールに従って休める仕事しかできないのである。
 不条理劇そこのけの奇妙なバイトもあった。お腹の大きい女性を見たら、後を付けて住所をつき止める。出産用品の会社の名簿作りらしいが、いまならたちまち逮捕されてしまうだろう。
 今回は、1ヶ月前に稽古に入ってからバイトを全休した。酒は2ヶ月前から断った。
 共演の俳優によると、公演1週間前に「岩本さんに突然オーラが出てきた」らしい。
 本人に会ってきいてみた。「そういえば、初日に、演りながら気持ちが落ち着いて、なにかが降りてきた感じはありました」という。
 脚本の第1稿を読んだとき、「この甘粕を演れる役者がいるのか」と、プロデューサーでもある高畠氏に言った。彼も密かに危惧していたのだが、岩本は見事に化けた。
「30年間芝居をやってきて、この1ヶ月ほどいい時間を過ごしたことはなかった。芝居のことだけ考えていればよかったから」
 岩本は楽日の夜から翌朝の8時まで呑み、1日休んで、ガードマンのアルバイトに出かけた。
 5回の公演はすでに終わったが、新しい狂気の役者の誕生を伝えたくて書いた。再演が待たれる。




写真(大) 甘粕正彦憲兵大尉を演じる岩本巧。
写真(小上) 甘粕が殺したとされる伊藤野枝(沓名環希)を尋問する甘粕大尉。
写真(小中) 李香蘭=後の山口淑子(上野山沙織)と。
写真(小下) 青酸カリを飲んで自死した。

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