第180回 炭坑絵師と東京タワー  【世界記憶遺産の炭坑絵師 山本作兵衛展】
4月10日号
  東京スカイツリーが営業開始からまもなく1年になる。電波塔としては、東京タワーに代わって、NHKと在京テレビ5局が、今年5月にほぼ移転完了の見込み。総工費650億、完成後も数々の電波障害のため100億円余の費用がかかったという。現在最後の試験電波が流されている。
 スカイツリーは高さ634メートル、東京タワーのほぼ2倍だ。(世界1といわれていたが、実はドバイのブルジュ・ハリーファが829.8メートルで2010年に開業している。)その人気は凄いというしかないが、用済みとなった東京タワーの人気も根強いものがあるのだ。なんといってもタワーの優美な曲線。パリのエフェエル塔よりも美しく、凜として気品がある。中世の貴婦人のようだ。それに比べてスカイツリーは野球のバットを逆さに立てたようで、色気も素っ気もないではないか、というのである。
 FM局などは東京タワーに残り、タクシーの無線基地の役目など、電波塔として完全に撤退というわけではないが、これからは、むしろ懐かしく華やかな歴史を持った観光施設として、文化的な役目を担っていくことになりそうだ。
 その第1弾が、開催中の東京タワー55周年記念「世界記憶遺産の炭坑絵師 山本作兵衛展」である。
 タワーが開業したのは昭和33年、日本経済が高度成長期に入るころだった。映画「ALWAYS3丁目の夕日」がまさに33年の東京を描いているから、映画をご覧になった方は、イメージがはっきりするだろう。作兵衛さんが本格的に絵を描き始めたのも33年である。
 山本作兵衛さんは、1892年、福岡県筑豊地区で生まれ、7〜8歳の頃から父について炭坑に入り、14歳で炭坑夫となった。以後約50年間、21の炭坑を転々として、日本のメイン・エネルギー石炭を掘り続けた。
 日本の高度成長期は、安い石炭が輸入され、さらにエネルギーが石炭から石油へ変わる時期でもあった。炭坑の閉山も相次いだ。田川市の位登炭坑の閉山を機に引退した作兵衛さんが、慣れない絵を描き始めたのは、「孫たちに自分が経験したヤマ(炭坑)の作業や生活を描き残してやろう」と思ったからだった。
 絵としては稚拙で美術的とは言えないが、半世紀にわたって経験したヤマの実情を余すところなく記録した。見る者は当時の厳しい労働環境を具体的に示されて衝撃を受けるが、作者の視線がヤマに生きる人に温かいことを感じて、もういちど感銘を受ける。
 作品は人の知るところとなり、「後世に伝えるべき価値」を認められて、2011年にユネスコの世界記憶遺産に登録された。「アンネの日記」や「ベートーベン交響曲第9番の自筆楽譜」に並ぶ日本初の登録である。
 作家の勝目梓さんは、自身、炭坑夫として働いた経験があり、それは、近著『ある殺人者の回想』(講談社)に活写されている。作兵衛さんの絵は、昭和56年発行の『王国と闇』(葦書房)によって早くから存在を知っていた。「世界記憶遺産に登録されたことは、とても嬉しい。作兵衛さんの記録は、機械化以前のランプの時代です。昭和22年の労働基準法で18歳未満と女性は坑内に入れなくなったから、ぼくも知らない時代のもので、絶対に残さなければいけない貴重な資料です。そして日本人がみな知らなければいけない事実です」
 記録絵には一つだけ嘘がある、と作兵衛さんはいう。「この時代の坑内は真っ暗でこんな色など見えない」からだ。
 過酷で危険な暗闇の地の底で、日本のエネルギーを支えた炭坑労働者たち。それは、いま福島原発で働いている労働者たちに重なって見えてしまうのだ。



写真(上) ヤマ(炭坑)の生活も詳しく描かれている。
写真(中) 「バンガリヤ上三緒三尺層」バンガリヤは傾斜のこと。荷を頭で受けて下がる。一歩でも踏み外すと暴走し、大事故になる。
写真(下)東京タワー、展入り口

オリンパス OM-D E-M5 M.ズイコーデジタル 12〜50ミリ



【世界記憶遺産の炭坑絵師 山本作兵衛展】芝公園内・東京タワー1階特設会場 入場料:1,200円 小・中・高校生600円 5月6日まで

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