第176回 「人ぜいたくの一生だった」大島渚監督逝く
2月10日号
  大島渚監督が亡くなって1ヶ月になろうとしている。弔辞や数々の思い出など送る言葉を読み聴く中で、『人ぜいたく』という、大島さん自身の言葉をきいた。「映画監督の収入は一般の人の半分に過ぎず、ぜいたくとは縁がない。しかし自分は大勢の才能のある人と仕事ができて、その分、人の何倍もの〈人ぜいたく〉をしてきた。」正確ではないが、そんな意味の言葉だった。そして、大島さんの生涯がほんとに豊かだったことを改めて知ったのだった。
 たとえば、「戦場のメリークリスマス」では、デヴィット・ボーイのほかに、俳優としては素人のビート・タケシ、坂本龍一を起用した。坂本ははじめ渋っていたが、音楽を担当させてもらえるなら、と出演を決めた。その結果、「戦メリ」の音楽は世界的に有名になり、映画的にも坂本自身にも大成功をもたらした。
 タケシは、怒鳴らない約束で演ることになった。その約束は守られなかったが、後年の北野監督誕生もこの時に種が蒔かれたのだ。
 葬儀委員長を務めた崔洋一監督は、日本で初めてのハード・コア映画「愛のコリーダ」の助監督だったが、早くもその才能をみつけて、撮影終了後に「今後、君とは(助手でなく)対等のつきあいをする」と宣言した。崔さんは監督になり、大島さん最後の作品「御法度」では俳優兼監督補佐として協力している。
 1960年、学生運動が盛り上がる中、「日本の夜と霧」が上映された。津川雅彦、桑野みゆきなど豪華キャストだったが、不入りを理由に4日間で上映打ち止めとなった。これを機に大島さんは松竹を去るのだが、この騒ぎで、夫人の小山明子さんほか大勢の俳優、スタッフが辞めることになった。このことが大島さんに〈人を大切に、才能を認め合う〉ことを教えたのではないだろうか。
 筆者が「アサヒカメラ」で「若き獅子たち」を連載していたとき、大島さんを撮影にスタジオへ出向いた。昼の休憩の時、助監督からカチンコを借りて白墨で〈?〉マークを書いた。当時、大島監督は政治的で難しい作品ばかり撮っていて、密かにオオシマ・ナゼカと言われていた。で、〈?〉マークを額の上にかざして撮ろうと思ったのだ。実に無謀な試みだった。すでに大島さんは怒鳴ること、殴ることで有名だった。撮影現場をうろちょろするカメラマンなど蹴飛ばされるかも知れない。目をつぶってカチンコをさし出した。
 大島さんのケラケラと笑う声が聞こえてきた。上機嫌で、ほんとに嬉しそうに、カメラの前に立ってくれた。
 虫けらみたいなカメラマンのなけなしのアイデアでも、きちんと認めて採用する、だからこその「人ぜいたく」だったと思う。
 さて、明子夫人を口説き落とすとき、300通の恋文と「君をカンヌへ連れて行く」が決め手だったという。そのカンヌ映画祭では、1978年の「愛の亡霊」で監督賞を受けた。あとはパルムドール(グランプリ)である。1983年、その機会が訪れた。「戦場のメリークリスマス」をひっさげてカンヌへ乗り込み、和服でパフォーマンスを繰り広げた。テレビは連日「戦メリ」こそグランプリの大本命と伝えたが、実は強力なライバルがいた。決まったのは今村昌平監督の「楢山節考」である。ちなみに今村さんは、カンヌには行かず、映画学校の農村実習に参加したあと東京へ戻り、発表の時は麻雀を楽しんでいたという。パルムドールを受け取ったのは、代わりに出席した坂本スミ子さんだった。
 筆者は山奥のロケにいっしょに参加した者だ、文句があるはずもないが、もし、年度が別だったら、と惜しまずにはいられない。

写真  難しい映画をたて続けに発表し「オオシマ・ナゼカ」といわれていた。

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