第173回 写真館主小沢昭一さんvs俳人小沢変哲
12月25日号
  小沢さんは東京根岸の写真館の長男として生まれた。小沢さんによると、「私の父は一介の写真屋でしたが、兵隊(シベリヤ出兵)で身体をこわしたせいもあったからでしょうか、あまり仕事に熱心ではなく、営業は2の次で、麻雀や川柳などを近所の商店街の親父連中と・・・」楽しむ人だった。シベリヤ帰りの父は病床につくことが多く、一家は貧窮のどん底にあえいだ。
 当時、息子の昭一は写真の手伝いなどしたことがなかった。はっきり言えば写真の仕事を疎んじていた。理由は、貧乏だったからだと思う。小沢さんは、早稲田大学文学部に籍を置きながら、保険の外交員、宝くじ売り、成人映画の見張り、7人掛け持ちの家庭教師など、あらゆるアルバイトをやった。20歳の時、俳優座養成所へ入ることを決めた、その入所式の前日、父が亡くなった。小沢さんは写真館と父に別れを告げて俳優としていくことになった。
 養成所を卒業してからの小沢さんの活躍はめざましかった。映画「にあんちゃん」(今村昌平監督)で、ブルーリボン助演賞をとり、劇団俳優小劇場を立ち上げ、ジャン・ジュネやサルトルの演劇を上演。映画「”エロ事師たち”より 人類学入門」(今村昌平監督)ではその年の主演男優賞を総なめにした。連戦連勝、飛ぶ鳥を落とすブームのさなか、小沢さんは何を思ったか、早稲田大学演劇科大学院へ再入学する。40歳だった。
 前後して、畢生の大事業となる「日本の放浪芸」の探訪を始めた。半年の予定だった取材は、1年、1年半と伸びた。数百年にわたって受け継がれ、もう今は生で見ることができなくなった日本の芸能の源流を記録する仕事だ。本来は、文化庁とか大学のやる仕事である。が、小沢さんとビクターがこの事業をやり遂げたことはわれわれにとって幸運だった。なぜなら、テキ屋のタンカバイやストリップの「誘う芸」トルコ風呂の「あしらう芸」など、アカデミックなお役所にはとうてい無理な企画だ。小沢さんならではの探求のお陰で、日本人の貴重な財産となったのだ。ちなみに「日本の放浪芸」6枚組は、71年の日本レコード大賞・企画賞を受けた。現在、CDとなって発売されている。
 この年には、あとで小沢さんにとってとても重要な俳句の会「東京やなぎ句会」も始まった。
 TBSラジオの「小沢昭一の小沢昭一的こころ」が始まったのもこのころである。73年1月に始まって今年9月まで39年間、1万414回続いた。
 そしてもう一つ、「長いこと休業しておりましたが、亡父に代わってこのたび25年ぶりに写真撮影の営業を再開いたします」ということになった。あれほど疎んじていた写真の跡継ぎである。
 写真集「珍奇絶倫小沢大写真館」(話の特集刊)が発売されるとき、その表紙と宣伝賑やかしのために、2代目館主のカメラマン振りを筆者が撮影することになった。浅草、玉の井、吉原とロケをして回った。いやもう、土地にも風俗にも食べものにも詳しいこと! 筆者はただもう小沢カメラマンのあとを付いて回るだけで、小沢さんは、わいせつ盗撮やら隠し撮りやら、サービス満点のポーズで演じてくれる。こちらは撮るというより撮らされるだけ。おそらく「なんて無知なカメラマンだろう」と思われていたことは間違いないのだが、そんなそぶりは絶対に見せず、年下だがカメラマンとしては少し先輩の筆者にいささかの礼を持って接されたのだった。
 舞台で芭蕉を演じたこともある小沢さんが、ある年の新年に詠んだ1句。
 御降りやもうわがままに生きるべき 変哲
 TVでは小沢さんの珍奇な面白がりの一面は、疎ましいなりわいの姿だったのか。
 御降りは元旦に降る雨のことだそうである。俳号の「変哲」は、父から受け継いだ2代目である。あの疎ましかった父から、写真と俳句を律儀に受け継いだのだ。合掌。

 小沢さんは12月10日逝去されました。83歳の生涯でした。


写真(大) 大阪で。撮影のために寸劇を演じてくれた。
写真(小) 「カメラマン小沢昭一」を演じる小沢さん。


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