第171回 北前船の歴史街道 富山・岩瀬大町通りに河上師を訪ねるA
11月25日号
  琳空館は街並みからやや引っ込んだ位置にあって、駐車中の大型車が視界を妨げていた。軽量鉄骨の建物と車3台分のスペースの何でもないこの場所が、実はとても大切だったことがあとで分かる。
 黒い僧衣に輪袈裟の河上師が、にこやかに出迎えてくれた。メールのやりとりはあるが、こうして直かに会うのは何年ぶりだろうか。筆者の知っている師は、まだ大学を卒業したての、若造の河上クンだった。20数年前、レゲエの大会「サンスプラッシュ」の取材でジャマイカ・モンテゴベイに行ったときのことだ。現地で落ち合った若い友人たちの中に静かに控えていた青年が河上クンだった。
 筆者たちは昼は写真の被写体を探して歩き回り、夕方からはサンスプラッシュの会場へ出かけた。何しろこの大会は、いつ始まるともいつ終わるとも知れず、演奏予定のグループのリーダーが昨夜ホテルでメイドに乱暴を働いてポリスに連行されてしまったが、まもなくヘリコプターでこちらへ向う予定、というような有様なのだ。われわれはタオルにくるまって、星空を見上げながら演奏が始まるのを待つ。ところが河上クンだけは、この会場でついぞ姿を見かけことがなかった。深夜にホテルの6人部屋へ戻っても河上くんはいない。翌朝、朝食が終わるころに帰ってきて、ぐったりとベッドに倒れ、そのまま夜まで眠り続ける。
 彼が寺の息子だと聞いていたので、何か悩むことがあるのだろうと想像した。その悩みは深く重いものに違いなかった。若い友人たちもただ見守るだけのようだった。
 翌年、河上クンの話が出たとき、彼はいまインドを放浪中だと聞いた。そのとき、なぜか河上クンはきっといい坊主になる、と直感したのだった。
 インドから戻って、「東京でいろんな場所や仕事を転々としていました。東京放浪です(笑)」と師はいう。20代最後の年、お寺の大きな行事の手伝いに帰って、この駐車場にいた時、何かが降りてきたのだった。天啓のように「この場所なら、何かができるだろう!」と。
 東京へ戻ってすぐに同棲していた彼女と築地本願寺で結婚式を挙げ、故郷の寺へ帰ってきた。それから13年、父である和上のもとで修業。お経を覚え檀家回りや説経も日々つとめた。住職となって、この場所で、中古ガレージを改装して阿弥陀像を安置し、多目的フリースペース「琳空館」を造ることができた。
 ここは仏事はもちろん、あるときはミニコンサート会場、あるときはオープンカフェ、美術ギャラリーと変身する。「3・11の震災のあと、集まる人の数もその在り方もかなり変わりました。私を含め、みんなの意識がまじめに本ものを求めていることを感じます」。
 河上師は、「琳空館を創造と交流と安心の場とするための17条」を作った。その第5条「一生のつきあいをしましょう」第10条「感覚や考え方の違いを認め合おう」などなど・・・。
 古民家のおそば屋でお昼をいただいたあと、港までの数百メートルを散歩した。「森家など廻船問屋の庭先は海でした。当たり前ですが(笑)」。それがバブルのころに埋め立てられ、9・11のあと高い塀ができて、美しい夕陽と日本海の海から地域の人を閉め出してしまった。それを取り戻すことができればどんなにいいか。  お寺って何だろう? 何ができるだろう? 河上師は河上クンの時代から、今もずっとそのことを考え続けているようだ。




写真(上) 琳空山慶集寺の住職・河上朋弘師(琳空館ONNESギャラリーにて)
写真(中) 琳空館は、仏事の他にギャラリーにもオープンカフェにもなる。
写真(下) 富山港には、中国行きの中古車、韓国行きのくず鉄が山積みされている。(富山湾展望台から)

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