第169回 ぱっと見たときの感激をカシャ 新・写真作法Aフォト・イノチェンティ
10月25日号
  いきなりですが、紙面から目を上げて背筋をのばし、目をつぶってください。一呼吸置いて目を開け、1秒でまた閉じて、そのまま、いま見た光景を思い出してください。
 目の前にいる愛する人の頬笑みでしたか?。
 ゲームに夢中の子供でしたか?。
 それとも窓から見えるいつもの風景でしたか?。
 いずれにしろ、いま1秒だけ見た光景は、もう戻ってきません。再び眼を開けたとき、窓外の風景の中を走っていた車はすでに走り去っているでしょう。子供はゲーム機を持ったまま出かけたかも知れない。あなたに見えるのは愛する人の悲しい横顔かも知れない。あの1秒間に見た光景は完全に過去のものとなり、記憶の中だけに残る光景となりました。つまり、これが写真なのです。。
 真眼塾の第1回で、集まってくれた人たちに、これをやっていただいたのですが、自分ですごく気に入って、実はそのあとでも時々一人で試みています。何度やっても、ぱっと見たときに目に飛び込んでくるのは、間違いなく光り輝く光景です。そして、その感激をそのまま「カシャ」と捉えた、そのような写真を「フォト・イノチェンティ」と呼ぶことにしました。(イノセンス・フォトをイタリー語で表示したのは、〈カメラ〉が部屋を意味するイタリー語だからです)。
 無邪気に写真を撮る喜びを教えてくれたのは、1894年生まれのジャック=アンリ・ラルティーグです。裕福な家に生まれたラルティーグは、8歳の時買ってもらったカメラで、日常のあらゆる場面を撮って写真日記を続けていました。69歳でニューヨーク近代美術館で写真展が開かれるまではほとんど無名のアマチュア・カメラマンでした。。
 写真の原点ともいえる「フォト・イノチェンティ」の流れは、いまもスポーツ写真などに脈々と続いています。しかし、これには若い感性に加えて、動体視力などカメラマン自身の運動能力が要求されます。カメラマンもスポーツ選手のような訓練が必要です。。
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 一方、画家が制作に応用したカメラ・オブキュラスから出発した写真は、肖像画など画家の持ち分をおびやかしながら、絵画の芸術性に追いつくことに必死でした。マン・レイのように、生涯、アートにコンプレックスを持っていたカメラマンもいます。  写真は、幸か不幸か、事件や行事などをはじめとする記録性、災害や戦争などの報道性、免許証などの実証性という、絵画にはない実用性を持っています。このことがかえって写真をアートから遠ざける結果になったのかも知れません。
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 いま写真は、フォト・イノチェンティの流れと、1枚の写真に社会批判や文明批評を盛り込んだ高度の批評性、さらに人間の本質に迫る芸術性に向かう流れとが2頭立てで進んでいると思います。そして、お互いに優越感とコンプレックスを持ち合って進化しているのではないかと思われます。仲のいい兄妹のように。
 アメリカの批評家スーザン・ソンタグは「すべての芸術は写真にあこがれている」といいました。写真には未来があります。

写真:「石黒健治真眼塾」で、目をつぶって開けて、初めて見る1秒間の光景を楽しんだ。

オリンパス OM-D E-M5  ズイコーデジタル 12~50ミリ


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