第165回 【遠景のベトナム・ホーチミンの近景】A 戦争は今も続いている
8月25日号
ツタヤではもう1枚DVDを借りた。「ラマン(愛人)」である。すでに上映館とDVDで、2回見ていて、隅々まで覚えているつもりなのだが、現実に見てきたばかりのショロン(英語でチョロン)の街とメコン河を、もういちど確かめるつもりだ。 周知のとおり、原作はフランスの著名な作家マルグリット・デュラスの自伝的な小説だ。1984年、ゴンクール賞を受賞し、世界的なベストセラーとなった。1992年、映画化の時は、「ヒロシマ、わが愛(24時間の情事)」の脚本家であり、監督の経験もあるデュラスとの間でトラブルもあったというが、結果は大ヒットした。 デュラスは、1914年、父の赴任先フランス領インドシナのギアダンで生まれた。仏領インドシナはベトナム、ラオス、カンボジアを含む広大な植民地だった。しかし、支配者側のデュラス一家は、父親の死と、母の投資の失敗で、生活は貧窮を極めていた。 母のお古の、きなりの絹のドレスに、つばの平らな、紫檀色で幅広の黒いリボンのついた男もののソフト。 サイゴンの寄宿舎からリセ(高校)へかよう少女は、17歳の時、メコンの渡し船の上で知り合った金持ちの華僑の青年と愛人関係になる。少女は、現地の中国人を蔑視しながら、むしろ積極的に、毎日毎夜ショロンの連れ込み部屋へ行くのだった。 青年のお金で、一家は豪華な食事にありつき、たびたび危機を免れた。いまでいう援助交際である。一家のフランスへの渡航費用も青年のお金だった。 別れの時、船の上から、埠頭の倉庫の陰で密かに見送る青年の車を見て、少女は初めて泣いた。 筆者にとって、ベトナムとは、ロシアンルーレットに恐怖を求めたアメリカ兵がさまようサイゴン(ホーチミン)のことであり、17歳のデュラスが中国人の青年と知り合ったメコン河のことであり、彼らが愛し合ったショロンの通りのことだった。 筆者のリクエストを聞いて、ホーチミン在住のK氏が、案内してくれた。バスを乗り継いで、ビンタイ市場や映画のロケ地をたずねた。デュラスが通った高校は、ついに見つからなかった。降り続く雨の中を、長時間ずぶ濡れのまま歩きながら、ふと思った。 いま、綿密な調査とプランで、素晴らしい案内をしてくれているK氏。頭が切れてシャイで少し気の弱そうなK氏。世界有数の企業のエリート戦士だったが、あるとき、会社を辞めて、ホーチミンに残り、いまはベトナムの女性とホーチミン近郊で暮らす。 すがたかたちや事情もすべて大違いだが、アメリカの敗残兵と華僑の青年の2012年の物語を、K氏の、雨に濡れた優しそうなまなざしに重ねてみていた・・・・。 ベトナムは、1940年代の第1次インドシナ戦争でフランスと、55年に肩代わりしたアメリカと、戦争のない時代などなかったかのようである。そしていま、過酷な経済の戦争が始まり、続いている。
写真(大) チョロンのビンタイ市場にて。「・・・かんだかい人声、中国語というのは、いつも叫んでいる言語だ、・・・・」(マルグリット・マルグリット・デュラス「ラマン(愛人)」より) 写真(小) メコン河。「・・・生涯をとおして、これほど美しい河、これほど原始のままの河を2度と見ることはないだろう。・・・」(「ラマン」より) オリンパスOM-D E-M5 M .ズイコーデジタル 12〜50ミリ
追記:ごく最近、K氏を紹介してくれた友人から次のようなメールが入った。「Kさんの結婚式に出るため、来月、ホーチミンへ行きます。」
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