第159回 逆転、逆転、また逆転  伊佐千尋氏と沖縄復帰40周年
5月15日号
  1972年5月14日夕刻、筆者は沖縄・那覇飛行場の端のセスナ発着所に降り立った。その日の深夜、つまり15日の午前0時の沖縄復帰の瞬間の現地のもようを撮影するためである。なぜセスナ機だったのか。当時は沖縄行きも海外旅行並みの手続きが必要だったし、復帰の日に向かって航空券がとれなかったのかも知れない。13日に立川飛行場を発ち、鹿児島で1泊、翌日は奄美大島で給油してようやくたどり着いた。
 沖縄は初めてだった。駆け出しのカメラマンは、右も左も分からないまま、コザを目指した。雨が降っていた。
 街は意外にも静かで米兵の姿もない。この日のトラブルを恐れて、米兵は禁足を食らっていたらしい。警察のパトカーだけがむやみに多かった。
 なんということなしに日付が変わってしまった。歓声の一つも上がらなかった。沖縄の施政権返還は長い間の念願だったが、その中身は本土並みとはほど遠いものだった。那覇の与儀公園あたりでは不平等復帰の反対集会があり、別のどこかでは祝宴が張られていたのかも知れないが、カメラマンとしては守備位置が悪く、空振りだった。

 61年の講和条約で日本は独立したが、沖縄は取り残された。瀬長亀次郎氏が言ったように「戦争は終わったが地獄は続いていた」のだ。55年に6才の由美子ちゃんが米兵にレイプされ殺害された事件は、本土に住む者も怒りに震えた。しかも、記録によればその1週後、9才の女児が同じようにレイプされている。その状態が終戦からずっと続いていた。

 復帰8年前の64年8月、日本の青年4人とアメリカ兵2人の間で乱闘があり、米兵1人が死亡、1人が負傷し、日本人4人が逮捕された。アメリカ統治下で日本人によってアメリカ兵が殺された逆転の事件だった。怒り狂った米兵が普天間署に殴り込みをかけて、留置された4人を皆殺しにするという噂も流れた。
 裁判はアメリカ流の陪審員審理の制度で行われた。様々な国籍の12名が選ばれ、実業家の伊佐千尋氏もその一人となった。
 伊佐氏は、凶器と傷の不一致などで疑問を抱き、粘り強く無罪を主張し、傷害致死罪は無罪、傷害罪だけを認める評決を導き出した。逆転である。ところが、判決は懲役3年の実刑(うち一人は執行猶予付き)という、傷害罪では例外的な重い判決が下された。懲罰的な逆転判決だった。
 伊佐氏はこの事件を再調査して、77年にノンフィクション『逆転』を出版した。作品は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、78年、NHKでテレビ化された。ところが青年の一人が実名で放送されて前科を暴かれた、とプライバシー侵害で提訴し、伊佐氏は敗れた。思わぬ逆転である。
 伊佐千尋氏は3つの大きな課題を投げかけることになった。第1に、裁判制度の問題だ。1928年から43年まで、日本にもあった裁判員制度の復活である。伊佐氏は「陪審制度を考える会」を発足させ、陪審制度の復活を求めてきた。2番目は、自身を巻き込んだプライバシーの問題だ。最後はもちろん、日米地位協定の問題である。復帰後73年から11年まで、米軍による犯罪は5500件を超え、人身事故は毎年100件を超えている。

写真 「普天間をこのようにしてしまった者を私は憎む」と伊佐千尋氏。(事件の起こった十八番横町で、1978年)

ニコンSP ニッコールF1.4 35mm

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