第156回 ガモウ戦記 【絆】を求める人 【絆】を断ち切ろうとする人
3月25日号
  産経新聞の曽野綾子さんのコラムが話題になっている。話題というより物議をかもしている。2004年の台風被害の時に『被災者は甘えるな』と書いたことが東日本大震災で蒸し返されているのだ。
「それを言っちゃあ、お終いよ」と思わずつぶやいた。が、意外にも曽野さんに同調する人が多いことを知って逆に驚いた。
 写真家の先輩F氏もその一人だ。F氏は東京大空襲で浅草の母の実家をやられた。F氏はいう。「3月10日は、東京大空襲の68年目に当たる。爆撃は延焼効果を狙って風の強い日を選んだといわれ、30万戸の家が焼かれ、8万3千人が亡くなり、被災者は百万人を超えた」。
「1枚の毛布どころか、1個のおにぎりも、もちろん補償もなかった。広島や長崎でも同じだ。多くの人が被爆直後の焼け跡をベクレルもシーベルトも知らずにさまよった。1杯の水さえ与えられず、原爆症の認定も何10年もかかった。・・・原発の立地の人たちは、すでに十分過ぎる交付金をもらい、いわば契約済みの事故ではないか。今さら何を」。
「3月11日はどの新聞も紙面の大半をつぶして大震災1周年の記事を満載していたが、前日の3月10日のことを、大手の新聞はただの1行も書いていない」
 F氏の怒りは止まらないが、実は、彼は東日本大震災の後すぐに多額の義援金を寄付しているのである。
 西木正明さんの「ガモウ戦記」の主人公蒲生太郎も、戦争ですべてを失った一人である。終戦の翌年、南方の戦地から引き上げてきた太郎は、C澄庭園近くの生家の跡に知らない人のバラック小屋が建ち、両親と家族全部が焼夷弾の犠牲になったことを知る。
 天涯孤独、あらゆる絆を失い、新橋のガード下で夜の女の世話になっていた太郎は、ある時元上官で軍医の金木の誘いで秋田へ行く。生保内駅(現田沢湖駅)を降りてすぐ連れて行かれた小料理屋で、蒲生太郎です、と自己紹介したとき、女将の姉の敏子は、「ガモさん? 」と絶句して、「身体を前に折って膝に顔を押しつけ、肩を震わせ、声を殺して笑い出した。」
 秋田出身の方はおわかりだろう。ガモは秋田弁で男性のシンボルのことだ。太郎はそのまま、戦争未亡人の敏子のもとに居ついてしまう。
 廃墟の東京から来た太郎には、緑豊かで水と空気と食事のおいしい秋田は、人情が溢れ、心地良い絆で結ばれた世界だった。しかし、〈絆〉はしがらみであり束縛であることは先号で書いたとおりだ。明るく面白く生きる人々の陰で、しがらみに傷つき敗れていく人、切れない絆を無理に切ろうとする人たちと関わり合いながら太郎は次第に村の人なっていく。
 西木さんは「ルーズベルトの刺客」や「ウエルカム トゥ パールハーバー」など、歴史的なテーマを綿密で大胆な取材で練り上げていくスケールの大きな小説で有名だが、「ガモウ戦記」は、珍らしくエロチックでゲラゲラ笑いながら読める1冊だ。が、中には人の生きる愉悦と悲哀を奥深く潜ませている。
 西木さんの筆名は生まれ育った西木村からとった。生家の茅葺きの家を手入れして、折に触れふるさとへ帰る。西木村を、大変だけどとても好きなんだと思う。


写真(上) どんど焼きで村人たちと点火する西木正明さん(左端)「昔はかまくらといって、何倍も大きかった」
写真(下) 西木正明著「ガモウ戦記」文芸春秋社版

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