第140回 
7月25日号 スローライフと黒い雨 9・11から3・11へ C
  「オーガニックとは、体内器官の調和(オルガナイズ)のことである」。とエッセイストの鶴田静さんは言う。単に農薬や化学肥料に頼らない有機農法のことだと思っていたので、少し目を開かれた気がした。
 鶴田さんはピンホール写真芸術学会のシンポジューム「エコライフとスローフォト」のパネリストとして、夫のE・レビンソンさんと共に出席した。
 ピンホール写真芸術学会は信頼する若い友人の浅野久男さんが副会長をしている。針穴写真は、レンズを使わずに、暗箱に開けた小さな穴が結ぶ映像を取り込む。露出は1分とか、長いものは1時間ほどかけて撮影する。デジカメ全盛の時代に、だからこそ、写真の原点ともいえる原始的な方法で撮影した映像は、手作りの焼き物のような確かさと暖かみを伝えてくれる。ピンホール写真をスローフォトと呼ぶこと、そしてスローライフの鶴田さん夫妻を迎えることはとても自然に思われた。
 鶴田さんは、20代の終わりに、今までの事務的な仕事に終止符を打って、イギリス観光に出かける。ロンドンでベジタリアンのヒッピーたちと知り合い、家賃のいらない空き家に一緒に住むようになる。あるとき、外でフライドチキンを食べてきたとき、「もし肉を食べたいなら、自分で殺して食べるべきよ」といわれ、ベジタリアンは単に菜食主義者ではなく、「殺さない人」の意味だと知る。そして何よりベジタリアンの食事のおいしさを知って、今までの「インスタントラーメン的出来合いのトンカツ的食生活」を恥じた。
 日本に帰ってきた鶴田さんは、ふとしたことから、地下足袋、半纏の迷い犬のような外国人のエドワード・レビンソンさんと結婚する。彼は「日本庭園を勉強したいと造園業者に弟子入りした、植物に霊的なものを感じている人」だった。2人が1988年、「千葉の人里離れた一隅」に住み始め、ほとんどすべての食べものを、自分の畑と地元の収穫でまかなう生活を始めたのは、当然のことかも知れない。
 鶴田さんが里山での暮らし書き、作った料理をレビンソンさん撮った本、「田園に暮らす」を開くと、料理がほんとにおいしそうで、生唾が出てしまいそうになる。
 1992年4月、里山の家へベラルーシ共和国の子供たちがやってきた。7歳から10歳の5人のグループ。皆やせていて腹痛や頭痛があり、甲状腺を腫らし、鼻血の止まらない子もいた。1986年、チェリノブイリ原発事故の時に幼児だった子供たちは、6年後も放射能被爆による免疫低下で苦しんでいたのだ。そんな子供たちを汚染されていない外国に1ヶ月滞在させ、健康を回復させて免疫力をつけようという、その里親の日本の第1号となり、つづけて5組を引き受けた。
 子供たちは肉を食べたいといい、鶴田さんは慌てる。(慌てたとは書いてないが)、ほんとはベジタリアン料理を食べさせたかったが、エネルギー優先で放射能も添加物もない肉を料理した。彼らは2−3キロずつ太り、明るく元気になった。1か月後、別れるとき、子供たちは帰りたくない、と言って泣いた。チェリノブイリ事故から6年、ベラルーシでは、今なお80万の人たちが苦しんでいるという。
 かつて広島・長崎で、新型爆弾などと呼ばれて、放射能の怖さを知らずに爆心地をさまよった人たちのことを思う。映画「黒い雨」をみると、広島市内のがれきの状態など、今度の被災地とあまりに似ていることに驚く(稲垣尚夫のセット)。そして、放射能が人の一生を変えてしまう恐ろしさも全く変わらない。66年前、被災者はただ捨てられた。今度も、同じ轍を踏まないように、しっかり監視していなければならない。

 福島原発の爆発以来、私たちは否応なく重い課題を背負うことになった。何か明るい話題を、せっかくのカラー号を華やかな写真で飾りたかったのだが・・・。

写真上 花盛りの美しいふるさと。しかし、人影はない。(大熊町にて)
写真中 鶴田静さんとE・レビンソンさん。左はピンホール写真芸術学会・副会長 浅野久男さん(川崎市民ミューアム・ピンホール写真展・大好きなひまわりの写真の前で)
写真下(左) 「田園に暮らす」(文春文庫+)638円  (右) 「黒い雨」【デジタルリマスター版】2,625円

オリンパスE−5 ズイコーデジタル 12−60ミリ

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