第138回 「人間は皆ひとりだよ」 9・11から3・11へA共存と公平
6月25日号
  「不幸になってくれたら嬉しい」(前号)という被災者のブログを読んで衝撃を受けた。そしてこんな悪甘ったれた台詞が「わからないけど、分かる」ことに2度目の衝撃を受けたのだった。こんな理不尽なことが分かるのは、日本人の精神の深層を流れる仏教の教えに関係があるのかも知れないと思った。そこで、日ごろ尊敬している若い僧侶の河上師に聞くことにした。
 本当に同じように不幸にならなければ被災者を支援することにはならないのか?平等とか公平とかに関係があるのか。また、慈悲という言葉について。アメリカ流の慈善(チャリティ)には偽善の匂いがつきまとうのはなぜか、などなど。
 3日後、メールが届いた。「私も同様に衝撃を受けてしまい、しばらくはご返事することができず、ずっと今も考え続けているところです」。そして、人間の問題を考えるには、必ず仏教にヒントがあるはず、と筆者の愚かな質問つきあってくれた。
 「まず仏教は『人間は一人である』というところから始まります。『人間はエゴ(我)である』といいかえてもいいと思います。『人間はひとり生まれ、ひとり死し、ひとり去り、ひとり来る』というブッダの言葉も仏典に伝えられています。《いっしょだよ、一人じゃない》というCMですが、お釈迦様なら《私もあなたも、一人だよ。それは、みんないっしょ。だから、いっしょだよ。》とおっしゃるかもしれません」。
  《ひとりじゃない》はあっさり否定された。仏教の教えはリアルだと聞いてはいたが、これほどドライとは!
 筆者の悲鳴のようなメールの向こうで、河上師はさらに考えてくれた。 「戦後アメリカによってもたらされた《自由と平等》は、3.11以後の日本においては、もうすでに古いものとなってしまったような気がします。日本人であることだけを理由にして、みんなが《自由と平等》の権利を主張するのであれば、それは《不公平》では? どうにかして生きていかなければいけない状況においては、自由よりも《自存》の方がリアルだし、自存していくために助け合おうとする《共存》の方が、よりリアルです。《みんないっしょに幸せに》も、《みんないっしょに不幸に》も、同じく観念的な《平等》です。《自由と平等》よりも、いまは《共存と公平》の方がリアルです」。
 ニューヨークの世界貿易センタービルが攻撃された9.11以後、アメリカはテロとの戦いという名の戦争を始めた。日本も同調した。アメリカによるグローバリゼーションの推進のためだったろうが、結果はごらんの通り格差が激しく生きにくくなるばかりだ。下世話な話だが、今の日本は、政治も経済界も、相変わらず《自由と平等》に名を借りた《利潤と繁栄》だけを追求しているように見える。かつて原発推進のCMに出ていた経済アナリストが、臆面もなくテレビで何かしゃべっている。日本人は恥を知らなくなった。せめてCMで得た多額の出演料ぐらいは義援金に差し出してほしい。法外な報酬を取って巨額の財産を作った人、東電の株や、原発爆破前後の円相場で儲けた人、わずかな小遣いを稼いだ人ではない、強欲に何百億単位でもうけた人に、原発で稼いだ分だけでも拠出するよう、ぜひお願いしたいのだ。なぜかなら貧者の1灯は貴重だがそれだけでは救援にも復興にも足りないからだ。応分な喜捨を。それが公平というものだろう。
 「みんな幸せに、と心から願っています。いまは現実的に問題をひとつひとつクリアして、不自由な状況にある人を助け、未来に向かってみんなが共存していけるような社会を創っていかなければいけないときであるように思います」。河上師は、ちょっとまじめすぎた感じになってしまいましたが、と締めくくった。

写真 大熊町では津波にやられた家も無人のままだ。カーテンが海風に大きくふくらんでいた。

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