第136回 20ミリシーベルトの荒野にて
5月15日号
   常磐道を四つ倉でおりて、国道7号を北上する。被災地への道はどこも混雑していると覚悟していたが、意外やさびしいくらいにスムースだった。空気が爽やかになって、海が近いことがわかるころ、右手に煙突が2本見えてきた。信号は「火の口」の標示だ。あの煙突は火力発電所だろう。
 そこから先ものどかな風景が広がっている。道路に小さな地割れが出てきた。補修のあとがない。閉店中のスーパーがある。さらに進むと検問があって、白い防護服にマスクの人がいる。ここから先が20キロ圏だという。ウインドウをさげて「トラック時報」を示し、取材したいというと、「お世話になっています」と好意的だ。援助物資を運んだ東京都トラック協会の活躍は、よく知られているようだ。
 このとき、本日の深夜、つまり明日4月21日0時より、20キロ圏内が立ち入り禁止になることを知らされた。
 実は、被災地へ取材に行くことにはためらいがあった。カメラマンは現場を見るのが仕事だといっても、例えばテレビで避難所の映像を見せつけられると、報道陣の無神経さに目を覆いたくなる。結局は、人の不幸を被写体にせざるを得ないのではないか。
 しかし原発事故は違うと思えた。地震と津波は天災だ。最終的には諦めなければならないが、原発事故はあきらめがつかない。諦めてはいけないと思った。
 大熊町に入る。ここはがれきの山にもまったく手がついていない。警戒の防護服の警官が、放射能に汚染されているから触れてはいけない、という。「ここはいま7ミリシーベルト。北西の方はもっと強いようだ」と教えてくれる。
 車に戻り、おそるおそる北へ向かう。第1原子力発電所・正門の案内板を見て、行けるところまで行くことにする。正門をウインドウ越しに見て引き返した。門番の白服の青年に正門付近の放射線量をききたかったが、仕事の邪魔をしてはいけないので遠慮した。
 双葉町の方へ回る。町は美しく、町役場の建物も体育館も立派でしっかりしている。窓ガラスも割れていないから、外から見た目だが地震の被害は壊滅的ではなかったようだ。道路も車が通れないほどの陥没などない。一般の民家も同じだ。庭には色とりどりの花。満開の桜に春の美しい光が降り注いでいる。
 しかし何かおかしい。先ほどからの重苦しい嘔吐感はなんだろう?!
 人がいない。温かいのに、冷たい。不気味だ。まるで死の町だ。
 同行の若い友人が、超現実的ですね、と言って、胸をさすっている。
 首相かだれかが10年20年は住めない、と言ったと非難されているが、実感としては、正しい。
 5月10日、被災2ヶ月目に、2時間だけの1時帰宅が許された。死の町に、ほんの少しだけ体温が戻った。帰宅第1陣となった山田町の町長は、「だんだん緑が多くなってきたのに、人がいないのはおかしいではないか」と語った。
 5月6日、菅首相が、浜岡原発の中止を中部電力に要請した。アメリカの指図だとか、支持率向上を狙ったとか、賛否両論でかまびすしいが、どんな猫でもネズミを捕る猫は良い猫だ、というではないか。
 20ミリシーベルトの荒野に、わずかに体温が戻ったと感じている人も多いと思う。

写真 無人の町に、びっこの犬が彷徨っていた。唯一体温のある風景だ。(原発10キロ圏の双葉町にて)

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