第133回 カルタゴ、2重の遺跡
3月25日号
   連日連夜、TVも新聞も地震と津波に襲われた町の映像を流し続けています。青い海と緑の山に包まれていた美しい町と暮らしが、一瞬のうちに廃墟に。何度見ても見るたびに息を呑み、唖然として、無常感さえ抱いてしまいます。  そして、この瞬間にも世界の各地で戦争が続いているが、人間がほんとうに戦うべき相手は自然の災害ではないのか、と思わないではいられません。  地球上のもう一つの大きな出来事は「ジャスミン革命」ですが、リビアのカダフィ政権に対して、いままで支持してきた米欧が、攻撃を開始、という大ニュースも新聞の片隅に追いやられています。
 革命の発端となったチュニジアの首都チュニスは、北アフリカの中でも最も穏やかで、イスラム文化と南欧の雰囲気が混ざりあった魅力的な都市です。メジナへ向かうメインストリートのハビブ・ブルギバ通り(フランス通り)は豊かな並木道で、夕方には小鳥がいっせいに集まってきて、「チュニス、チュニス」とさえずる、とこれはジョークですが。  今回は、フランス通りの「11月7日広場」から東北東20キロのカルタゴを訪ねることにしましょう。
 カルタゴは紀元前9世紀ごろに、フェニキア人が交易のための拠点として築いた都市だそうです。小国ながら地中海を制覇して、大国ローマにも攻め上ったこともありましたが、第2次ポエニ戦争(前219-201)で破れ、無条件降伏をしました。その講和条約は、
1)完全武装解除。
2)独立は認めるが、本国以外のすべての領土を放棄。
3)カルタゴの安全はローマが保障し、カルタゴは専守防衛に限り自衛軍を認めるが、海外での戦闘行為は許さない。
4)カルタゴに駐留するローマ軍の給与一切はカルタゴがまかなう。
5)賠償金として1万タレントをローマに支払う。ただし60年賦とする。
という厳しいものでした。日本が敗戦の時のサンフランシスコ条約にそっくりです。
 しかし、敗軍の将となったハンニバル将軍が執政をとり、通商と技術大国として、短い期間で見事に経済復興を遂げ、不可能と思われた賠償金を10数年で前倒しで払うまでになりました。一方、戦勝国のローマは、世界の覇権を握っていましたが、経済は疲弊して、気づいてみれば貿易赤字が増え続けていました。
 日米の経済摩擦で、日本叩きが起こったときなどは、はるか2000年前のローマとカルタゴの関係にアメリカと日本を重ねて、引き合いに出されたこともあったようです。
 ローマ人にとって、カルタゴ人は理解できない民族だったのでしょう。「抜け目なく、狡猾で、金儲けには手段を選ばず、人生の楽しみを知らぬ働き蜂。カルタゴは滅ぼさなければならぬ。」ローマ元老院の財務官カトーの言葉です。ついに、ローマは第3次ポエニ戦争を起こしました。元老院の背後にはローマの金融業者と大商人がいたといわれています。
 3年余を費やしたカルタゴ陥落のとき、炎は17日の間消えず、1メートルの灰が積もった、その灰を掘り起こして誰も2度と住むことが出来ないように塩をまいた。こうして700年の間繁栄を続けたカルタゴは跡形もなく消え失せた、と歴史は伝えています。
 その後、カエサルによって廃墟の上に第2のカルタゴが建設されました。いまは世界有数の観光地です。
 災害地に雪と放射能が降っています。何という過酷な仕打ちでしょうか。しかし、カルタゴのような人為の戦争ではなく、自然との闘いならば、間もなく、確実に春が来ます。
 原発がメルトダウンを起こさないことを祈りながら。

写真 首都チュニスから20qほどのカルタゴ、ローマ時代の遺跡。この遺跡の直下にカルタゴの遺跡が隠れている。

ハッセルブラッド500C プラナー80ミリ
close
mail ishiguro kenji