第125回 くわさわ生活はおいしいか 桑澤洋子生誕100年記念「SO+ZO」展
11月25日号
   舞台美術家の朝倉攝先生の撮影の打ち合わせのとき、雑談の中で、筆者が桑澤デザイン出身とわかると、先生は「それなら君を信用する」と、全面的な協力で、山中湖の別荘までも案内していただいた。そして面倒な仕掛けの撮影に最後までつきあってくださった。桑澤というだけでこんなに恩恵にあずかるとは!
 写真の腕を信用するとかではなく、桑澤で学んだ者なら、それなりに頭が柔らかいだろう、多少は感性も鍛えられているだろう、ぐらいのことだったと思う。攝先生は日本で初めてデザインを教える学校「桑澤デザイン研究所」の創立時からのユニークな教授陣のメンバーだったのだ。筆者は、教授陣に写真家の石元泰博先生がおられることを知って入学したのだった。校舎が渋谷区役所前に移転してからで、在学中に攝先生にも桑澤先生にも直接教わる機会がなかったは残念だ。
 桑澤デザイン研究所は、1954年、青山で開校した。日本は朝鮮戦争の特需で、高度成長の端緒を掴んでいた。家庭用電気製品の普及が始まり、デザイン界も活況を呈し始めていた。この当時の3種の神器は、電気冷蔵庫、洗濯機、掃除機だった。
 創立者の桑澤洋子先生は、1910年東京生まれ、女子美術学校(現女子美術大学)西洋画部卒。在学中から、純粋美術ではなく、生活美術をめざしていた。桑澤服飾工房を銀座に作り、49年ごろは、旧国鉄の女子のユニフォーム、東京オリンピックの競技係員などの制服をデザインした。1954年には大丸東京店で、ふだん着の既製服をデザインする「桑澤イージー・ウエア」コーナーを開設した。今でいうプレタポルテの先駆けである。
 1934年、写真家田村茂氏と結婚。田村氏はファッションカメラマンとして活躍していたが、1951年の三越争議の取材をきっかけに社会派カメラマンに転向した。これらのことと関係があったのかどうか、この年離婚。洋子先生の情熱はデザイン学校の創設に向かった。1966年には、東京造形大学を開設した。
 「SO+ZO」展(桑澤のSOと造形のZOの意)は、洋子先生生誕100年を記念して開かれている。この50数年の桑澤と造形の卒業生は3万人に達したという。
 会場には、宣言文ともいえるメッセージが掲げられている。「創設者、桑澤洋子の教育実践の根底にあったものは、デザインやアート、造形活動が、社会じたいをより良くする、という社会主義的な思想である。それは、利便性を追求し、消費を単純にあおる資本主義的な競争社会に対して、常に批判的な眼差しを向け、共生的、共感的な者を求めながら、造形の根を人間主義的なものに据える、優れた人材を生み出していった」 確かに桑澤は日本のデザイン界をリードしてきた。一時はどこの会社のデザイン室、宣伝部にも必ず桑澤出身者がいた。筆者もひそかに桑澤で学んだことを誇りに思っている。・・・だからこそ、言わなければならない。今度の「SO+ZO」展を見て、たいへん落胆したことを。
 ここに展示されている作品の多くは、メッセージとはほど遠い、こぎれいなだけのものだ。デザインとは、生活を変えていく意志の表現であり、つき詰めれば世界観のことだと思う。生活器具の角をとがらせたり丸めたりすることだけではないはずだ。特にポスターの「くわさわ生活」は、西武百貨店の「おいしい生活」(1982年)のパロディだが、バブル時代のお先棒を担いだ広告だったことを主催者サイドは考えなかったのだろうか。


写真(上) 「SO+ZO」展のポスターを模したTシャツのデザイン。(1982年、西武百貨店のキャンペーン「おいしい生活」のパロディ)。原画はウッディ・アレンが出演した。
写真(下左) 桑澤洋子デザインのふだん着と作業着。
写真(下右) 倉俣史朗「変形の家具」

■「SO+ZO」展 11月28日(日)まで (開館時間 10時―19時)
第1会場 Bunkamuraザ・ミュージアム 第2会場 桑沢デザイン研究所 1階ホール
入場料800円、学生500円 問合せは 学校法人桑沢学園事務局まで 042-637-8438

オリンパスE−30 ズイコーデジタル12-60ミリリ
close
mail ishiguro kenji