第119回 マン・レイの真実 3人のミューズたち
8月25日号
   マン・レイという名前は、ぼくたち写真を学ぶものにとって、写真の歴史上見過ごすことのできない大きな存在です。肖像写真家としてはもちろん、写真表現の可能性でも刮目すべき発明発見をしました。カメラを使わずに直接印画紙に光を当てるレイヨグラムやソラリゼーションの技法などです。(その上、今回の展示では1950年代にすでにカラー着色の写真を作っていたことが明らかにされています)。
 マン・レイの名は巨大なブランドとして、現代でもたとえばコンピュータのスクリーンセーバーやアクセサリーのデザインとしても商品化されています。
 マン・レイ=エマニュエル・ラドニッキーは1890年仕立て屋の父とお針子の母の間に、アメリカ・フラデルフィアで生まれました。一家は1800年代にロシヤからの移民でした。幼いころから絵描きになりたかったエマニエルは、絵具が足りなくなると、店から失敬してくることもあったといいます。
 1912年、ラドニッキー家は名前をレイに変えます。ユダヤ人差別を回避するためでした。エマニュエルも愛称のマニーからマンと名乗り、マン・レイとしました。22歳でした。(タイタニック号の沈没はこの年でした)
 レイは自分の作品を記録するために、写真を撮り始めます。
 1921年7月14日、レイは500ドルを借金して船に乗り、パリへいきます。31歳でした。
 生活のために、作家たち、ピカソやマチスなどの作品を撮影し、彼らの肖像も撮ります。写真家として次第に有名になり、バザーやヴォーグのファッションの注文を受けるようになります。一方、当時の前衛的な芸術家たち、シュールレアリストたちとの交流も盛んで、このころがレイの黄金時代だったかもしれません。
 パリ時代、歌手のキキと過ごした6年間には官能的な作品を多く発表しました。
 キキと別れたあと、助手を志願したリー・ミラーが、現像中の暗室でうっかり明かりをつけてしまって、ソラリゼーションの技法が見つかったそうです。
 1940年、第2次世界大戦はナチ・ドイツがヨーロッパを席巻し、フランス政府も崩壊しました。レイはパリを出てロサンゼルスへ逃れます。50歳でした。(この年、日独伊3国同盟が結ばれました)
 ロスへたどり着いた翌日、モデルをしていたジュリエット・ブラウナーと「2人は踊った」。そして以後35年、生涯を終えるまで「彼女はミューズであった」といいます。
 1951年、61歳のとき再びパリへ戻ってからは、商業用の写真の仕事は断る一方、ジュリエットの写真などは撮り続け、人工着色法を考案しています。もともと、絵画やオブジェの制作に熱心で、写真は生活の方法ではあるが、芸術の方法としては不満を持っていて、「写真は芸術ではない」と書いたりしていました。
 1976年、86歳で、波乱の20世紀の波をかぶり続けた生涯を閉じました。




写真(大)■マン・レイ展 知られざる創作の秘密 国立新美術館 9月13日まで(火曜休館) 観覧料 1,500円 学生1.000円
写真(小上-左)ピカソ/ (右)ヘミングウエイ(いずれも額縁もレイの選択によるもの)
写真(小中-左)目撃者(1947年 最後に結婚したジュリエットの目)/ (右)プリアポス(1920年)ペーパーウエイトなど様々な作品に展開している
写真(小下-左)アングルのヴァイオリン(モデルはパリ時代の恋人キキ)/ (右)黄金の唇(1935年ごろ リー・ミラーの唇)

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