第112回 五木版「親鸞」を読む
4月25日号
   五木寛之著「親鸞」を読みました。分厚い上下2巻、合計666ページの大著ですが、一気に読んでしまいました。面白かった。こんなに面白くていいのか、という書評もあったと聞きますが、それぐらいの興味津々、活劇あり、裏切りあり、恋もあり、心のもだえもあり、息もつかせぬ、血湧き肉躍るお話のうちに、人が生きるということはなんなのかという難問の入り口に立つ自分を発見するというわけでした。
 面白すぎるという批評の根っこには、浄土真宗の開祖である宗教上の偉人の、生々しい迷いや肉欲に悩む姿を描いていいのか、ということがあるのでしょうか。しかし、五木さんは、人間だから血も肉もあるのが当たり前、地獄一定、悪人正機だといっているのだと思います。
 忠範という名の少年時代、京都は荒れ果てて、巷には行き倒れの死体が転っているありさまでした。まともに生きていては暮らせない末法の世の中で、忠範少年は、召使いの犬丸に連れられて、鴨の河原でうじ虫にまみれた死体を川へ流す宿無し坊主・法螺坊、河原の石を拾って撃つ石つぶての弥七などと交わる巻頭の「人を殺す牛」の章は、映画の怒濤のモブシーンのようで、大きなうねりを予感させます。 12才で叡山に登り、範宴となって修行を積み、19才の時、法然上人を知り、山を下りて綽空を名のります。叡山で学んだことを、遊芸人、白拍子、遊び女、印地、乞食など雑民ひしめく俗世間に身をおいて考える決心をします。この間に、煩悩の火に焼かれて女犯を犯し、最愛の紫野とくらし始めます。また、生き血もしたたる十悪五逆の黒面王子との死闘など、孫悟空や猪八戒に守られた三蔵法師の物語のように楽しく、スパロー船長の映画パイレーツ・オブ・カビリアンのように痛快です。そして、時代の闇と自己の内なる闇をさまようさまはドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を思わせます。
 綽空はさらに善信と名を改めて法然の許で念仏一筋に生きようとしますが、その念仏が大きなうねりとなって民衆を動かし始めたとき、弾圧が加わって、法然は土佐へ、綽空は越後へ流されることになります。4度目に「親鸞」を名乗って流遠への旅立ちで、この波乱の物語は閉じられます。
 読み終えて、久しぶりに五木さんにお会いしました。昨日は大阪日帰り、今日は長野で講演があり、戻ったばかりという忙しさのようでした。
 お聞きしたいことはたった一つ。親鸞となってからの続編はどうなのですか?
 答えは、いろいろあるが、結論を言えばもちろん書くつもりだ、ということでした。

 安心しました。


写真(上)「親鸞」を書き終えて。都内のホテルで。
写真 (下「親鸞」(上・下)講談社刊 各1,600円+税

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