第111回 文字に刺繍 顔なしの名刺
4月10日号
   福田尚代さんは、芸大在学中は油絵を描いていた。あるとき停電を経験したきっかけで美術からはなれて外国へ行くことになった、と彼女はいう。アメリカ、ワシントン州の州都オリンピアである。(イチローのいるシアトルは州都ではない)。
 そこは1年のほとんどが雨で、霧雨の世界だった。言葉が通じないばかりか美術とも縁のない生活が始まった。日本語の本も手に入りにくかった。
「本を読むことが、一番の美術体験で、読書によって見える風景が最も美しく確かなものでした」と言う福田さんには、不安で孤独な日々だったと思われる。  福田さんは森の中で、ひとり回文を書いていたという。上から呼んでも下から呼んでも同じ、の回文である。(福田さんのことは回文抜きでは語れないのだが、残念ながらいずれ機会を見てご紹介したい)。
 あるとき、冬、雪の中で、1週間の大停電が起こった。
 福田さんはベットで消しゴムを削って作品を作っていた。
 文字を消す役の消しゴムが、消すことで自らも消滅していく・・・・。
 2000年に日本へ帰ってきて、いま、福田さんは、夜中の2時に起きて、本のページの中や、名刺や、はがきの文字の縁にとても細い針と糸を通して、文字を消していく作業を続けている。それは自分の痕跡を消していくこと、だという。「とても楽しい、ながーい距離を歩いていくような気がします」。
 日の出の前に作業は終わる。自分は極端な朝型の人間だから、と福田さんは笑う。朝型というより丑ミツ型と言うべきではないか?(笑)
 さて、アーチストファイルは今年で3年目。国立新美術館が出来てからの企画で、国内外でいま最も注目すべき活動をしている作家たちを選抜、紹介する展覧会だという。今年は福田さんなど7人の作家が選ばれた。選ぶ基準は特になく、学芸員(キューレター)それぞれの推薦によるものだそうだ。とすれば、学芸員の、〈いま〉を見つめる眼力を示す展覧会でもある。見る目のないキューレターほど哀しいものはない。
 同じ時期に開催中のルノアール展は満員だが、残念ながらアーチストファイルの方は閑散としている。独立行政法人の新美術館が、来週から始まる事業仕分けの対象になっているかどうか知らないが、僕らは現代の美術に触れることも大事だ。この際、ルノアール展のついでに、キューレターたちの眼力を確かめて、仕分けに残るように願おうではないか。
 福田さんにお会いして、名刺を差し出すとき、もしかして自分の名前が、美しい刺繍で消されるかも知れない、不安なような、それでいて楽しいような気分に襲われた。さらに福田さんから、刺繍で名前の消えた名刺を渡されたらどうしようか、と期待したが、名刺は貰えなかった。
「千と千尋の神隠し」の顔なしを思い出した。欲望果てしなく、大食らいで、どう猛な、一般大衆の顔なしを。
 それより何よりショックで残念だったのは、どうしても撮影に応じて貰えなかったことだ。自分の痕跡が残ることを拒否するのは、彼女には当然のことだったのか。アウンサン・スーチーさんのような美しさを持った人だったが。



写真(上)名刺に刺繍 自分の痕跡を消していく・・・
写真(中)新美術館「アーチストファイル2010」福田尚代展の部屋
写真 (下)本に刺繍

■国立新美術館
「アーチストファイル2010」展(5月5日まで)火曜休館(連休中の火曜はオープン) 観覧料 一般1000円 大学生500円 高中生以下無料

オリンパスE−30 ズイコーデジタル 14−54ミリ
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