第107回 日本と韓国@  日本と朝鮮は唇歯の関係だ−−日韓併合100年
2月10日号
   初めて韓国を訪れたのは30数年前の冬、釜山とソウルでの取材旅行だった。金浦空港では、カメラを徹底的にチェックされ、パスポートに記入された。当時は高額の課税品だったので、滞在中の売却を防ぐためだ。釜山空港では機内に持ち込むことも禁止された。金浦空港の近くに軍の施設があるからだった。ソウルについたのは夕方だったが、首都にしては街は暗かった。まだ現在のようなデラックスホテルなどなくて、会社の寮のような旅館で荷物を解いた。あるいは予算の関係だったのかも知れない。
 すぐに韓国側の接待で、老舗らしい料亭に連れて行かれた。料理が満載のテーブルと、チマチョゴリの若い女性が待っていた。彼女たちがキーセンだと同行の編集長が教えてくれたが、女子大生のアルバイトだとあとでわかった。
 編集長は、現地派遣の警官の息子としてピョンヤンで育った、ときいた。満州事変のころのことだ。幼いながら、父親の朝鮮人に対する厳しい取り締まりの行為を、見てきた。
 いままでに何度も韓国取材の機会があったが、避けてきた。父親の行為が、強いトラウマとして残っていた。今度の訪問でこころの整理が出来るだろうか、と飛行機の中で話した。 接待側の人はみな日本語を話し、和気藹々で仕事の話も酒も進んだ。話す口もとへキーセンが料理を摘んだ箸を運ぶ。客は手ぶらで口を動かしていればいい。
 何がきっかけだったのか、韓国側の一番若い青年が、思い詰めた調子で、民族が日本人から受けた差別について語り始めた。おもに僕に向かって話したのは、同年配だったからでもあり、目の前の若くきれいな韓国女性が、日本人にサービスするのが気に入らなかったからかも知れない。若かった僕も反撃した。それは親たちの時代のことで、僕らが差別などしたことはない。逆にこちらこそ韓国人からひどい目にあっている。子供のころ、学校帰りに不良少年たちから意味もなく暴力をふるわれたことがあるが、不良グループのリーダーは韓国人少年だった、などと。
 彼は、問題にならないとばかり、日本の朝鮮支配の歴史を語り、一番の民族的な屈辱は姓名を日本名にさせられたことであるといい、しまいには泣き出してしまった。
 宴席はしらけ、僕たちは早々に引き上げることになった。夜気が厳しく寒かったことを覚えている。
 2回目のソウルは10年前だった。都心にはロッテホテルなどがそびえて、近代都市の姿を整えていた。が、人々の表情はみな険しく、引きつっていた。当時の日本人の顔は、穏やかで豊かだった。
 昨年暮れ、三度目のソウルを訪れた。夜はマイナス14℃という寒さだったが、地下鉄でも街でも、人々の顔はいきいきと明るく見えた。いま日本では暗い顔が多い。逆転したな、と思った。
 今年は日韓併合100年だそうである。「過去を清算し平和の未来へ1.31集会」を取材した。最初に歴史学者のイ・イファ西原大学教授がステージに上がって、静かに話し始めた。演題は「未来の100年を開いていきましょう」である。
 配られた資料で、教授の集会での役割り紹介を見て、戦慄が走った。教授は、「真実と未来 国恥100年事業共同推進委員会常任共同代表」であった。《国恥100年》とは! 教授はおだやかに韓国と日本は一衣帶水、または唇歯の関係であり、この集会を機会に真の友達になりましょう、と話したが、日韓併合はまさに陵辱された《国恥》だったのだ。
 陵辱した方の日本側こそ国恥を知らなければならないはずだ、と思う。

写真(上) TVドラマ「チャンムグの誓い」の舞台となった朝鮮時代の王宮・景福宮。現在、ソウル随一の観光施設として、毎日パフォーマンスが行われている。
写真(中) 100年前の1910年日韓併合の時には、景福宮に日の丸が掲げられた。(「韓国併合100年」写真展より)
写真(下) 「過去を清算し平和の未来へ 1.31集会」のオープニングで〈朝露〉を歌う「レノの会」のメンバー(早稲田奉仕団スコットホールにて)

オリンパスE−P2, E−30 ズイコーデジタル 14−42ミリ,12−60ミリ

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