第102回 坂の上の雲 異聞
11月25日号
  NHKで、変則のスペシャルドラマが放送される。29日(日)夜8時から、「天地人」が終了した後を受けて、今年いっぱい5回のオンエアだという。「坂の上の雲・第1部」で、第2部は来年秋に、第3部は再来年の秋の放送というから、どう見ても変則だ。  いっぽう大河ドラマの方は、年明けから「龍馬が行く」が始まる。これも司馬遼太郎さんの長編小説のドラマ化である。これからしばらくは、毎週司馬さんの世界につきあうことになるわけである。
 「坂の上の雲」は、産経新聞夕刊に1968年から4年間連載された。以来、発行部数は、2000万部を超えているという。とんでもない長期ベストセラーである。ちなみに司馬作品の売り上げランキングでは「坂の上の雲」は2位で、1位は「龍馬がゆく」、3位は「飛ぶがごとく」である。どうして司馬作品は良く読まれるのか。いずれも、明治維新の前後の、いわば近代日本の黎明期の青春の輝きを描いていて、文庫本で全8冊の長編を全く退屈なしで読ませる。文学作品というより、歴史講談を聞いている趣がある。「文学」が内面的で非合理世界に入ろうとするのに対し、司馬作品は、あくまでも合理主義に徹していて、人の内面に深入りはしない。ある種の明るさが人気の秘密かも知れない。歴代の首相、大企業の経営者が、揃って司馬作品を愛読書にあげている。
 「坂の上の雲」第1部は、伊予松山で生まれ育った秋山好古(阿部寛)、真之(本木雅弘)兄弟と、正岡子規(香川照之)の3人の若者たちが明治の大改革期をどう生きようとしたか、が描かれると思われる。兄の好古は陸軍の騎兵隊を率い、弟は海軍の参謀として大国ロシアと戦ったくだりは第2部以降になるだろう。第1部で活躍するのは、俳句と短歌の改革を成し遂げたといわれる正岡子規だろう。
 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
 の句は、誰でも知っている。
 子規は、結核に冒されて、物語の半ばで先立ってしまう。
 おとといのヘチマの水も間に合わず
 の句を残して。35才という若さだった。
 子規は、日本に野球が渡来したころ、いち早く野球に親しんだという。明治23年3月21日、上野公園の博物館の空き地で試合をしたことを書き残している。捕手だった。子規は野球の用語を日本語に翻訳した。子規訳ではキャッチャーは〈獲者〉、ピッチャーは〈投者〉、アウトは〈除外〉、残塁は〈立往生〉であった。また、野球を〈の・ボール〉と読み替えて、自分のペンネームとして使った。本名の升(のぼる)にかけたのだという。松山市の坊ちゃんスタジアム前の市坪駅は、「の・ボール駅」の別称を併記している。
 真之役の本木雅弘さんは、記者会見で「8年前にこの話をいただいて・・・」と語っている。NHKはオンエアまでに8年かかったわけだ。バルチック艦隊との日本海戦のシーンもロシアとの関係でただ事ではないが、旅順攻撃で数万の兵を無駄な死に追いやった乃木将軍の扱いも大難物と思われる。司馬さんは、その無能ぶりを「(乃木希典は)近代要塞の攻撃についての知識も見識もなく戦った」と、あとがきで書いている。これに対して、「司馬遼太郎の誤りを正す」(桑原巌著)という本まで出版されているのである。

写真上 明治23年に野球を楽しんだという正岡子規を記念して、上野恩賜公園正岡子規記念球場が開設された。
写真下 旧乃木邸の玄関横に、戦争で父を失った辻売りの少年に大金を与えたという伝説の石像が建っている。乃木坂は幽霊坂と呼ばれていたが、乃木大将夫妻自刃のあと、乃木坂と改名した。旧乃木邸は自由に観覧できる。隣には乃木神社。

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