第95回 原爆と脳死について 8月は死を想う
8月10日号
  日本の8月は特別な月だ。誰もが[死を想う]月である。烈しい太陽が街や村を強いコントラストに仕上げ、ひぐらし蝉の音が充満して、世界は逆に静まりかえる。そのような時間が、人の心を非日常的へ誘うのだろうか。
 石垣島のアンガマは、旧盆の夜、賑やかな音曲とともに先祖の爺さん婆さんがあの世からやってきて、死後について若者と語り合う行事である。秋田・西馬音内の盆踊りは、黒い彦三頭巾をかぶって踊る。亡者の踊りだという。・・・特別な行事がなくても日本人は夏休みには里帰りして、墓を詣で、先祖を想う。
 お盆だけではない、8月は終戦とヒロシマ・ナガサキの月である。第2次大戦の死は全世界で6千万人を超えるともいわれる。広島は23万7千人、長崎は13万4千人が犠牲になった。
 今年の8月6日には、政府が実に64年ぶりに 原爆症救済の確認書に署名し、官房長官が長期化を陳謝した。政権末期に良いことを一つ、は結構だが64年がどういう年月か、あきれるばかりだ。せめて、オバマ大統領の「核のない世界をめざす」「核を使用した世界で唯一の國として道義的責任」に言及した歴史的演説の前に解決してほしかった。
 アメリカでは、オバマ演説に係なく、原爆投下は正しかったと言う世論が、若者で51%、高年齢では73%を占めているという。戦争を終わらせるために必要だった、長期間陸上で戦争すれば、犠牲はもっと多くなった、と言うのである。いかにもプラグマチズムの國アメリカである。つまり、この死と、あの生は、交換可能だということか。 この夏のもう一つの大問題は、[脳死を人の死]と認めた国会決議である。脳死臨調の委員を務めた梅原猛氏は言う。「脳死は死であると認めることは、この何万年、何十万年と人間が持ちつづけてきた死の概念を変えようとするものである。何のため、もっぱら臓器移植をせんがためである。」
 加藤周一氏は、死に対する考え方は4つあるとして、神道では、魂が体から離れていく。儒教では魂も体も自然から生まれ自然に帰る。浄土宗やキリスト教は、体は死ぬと分解して滅びるが魂は生き延びる、と考える。禅宗は、生死の超越を説く。4つめは科学的な死で、精神と体をくっつけて考える。脳が滅びると体も時間の問題だ、死んだ体はゴミであり、ゴミは有効利用されるべきと考える。
 カトリック教徒で作家の加賀乙彦氏は、「自分の臓器は全部差し上げようと思っている。わたしが死んでも、わたしの心臓が誰かの体の中で生きてくれたら、これは嬉しい」。
 鷲田小彌太氏は、臓器移植はカニバリズム(人肉食)であり、口から食べないが、半ば死んでいる人間の器官を体内に埋め込んでいくことだ。人類のタブーを肯定することだという。1972年に起きた「アンデスの聖餐」は、飛行機がアンデス山中に墜落して、死んだ乗客の遺体を食べて飢えをしのいだ事件だが、ローマ法王は、何の問題もないと彼らを祝福した。タブーはすでに破られているのか。
 三徴候死、つまり呼吸の停止、脈拍の停止、瞳孔の散大を見て、人の死とする。この有史以来の死の定義は、人工呼吸器、人工心臓の開発でもろくも崩れようとしている。が、呼吸をし、鼓動があり、体温もある人間を「生死体」とも言うそうだが、その状態で、切って臓器を取り出す行為に耐えられないという人は多い。
 脳死を人の死と認める人でも、立花隆氏などは脳死の判定の基準を問題とする。いずれにしろ国会の議員たち、郵政選挙で身分を得ただけの人たちで人の死を決める恐ろしさを痛感しない訳にはいかない。臓器移植を巡って国際的なクレームに対してのことだろうが、そそくさと決めないでほしい。
 生まれたままで人生を全うできる人は少ない。義足義手の人、補聴器を使う人も多い。筆者も学童時代からめがねのお世話になっている。差し歯もある。手術で輸血も受けた。輸血も一種の臓器移植だと思うが、人の死を待つ臓器を、しかも金で手に入れることだけはしたくない。
 移植の費用は、2004年の報告だが、輸送費などを除く摘出から手術と薬品代で、心臓が1千万円、肝臓が900万、両肺で820万、腎臓は530万円だという。臓器そのものは無料だというが、アメリカではアラブなどの王侯貴族が千万単位の金を払いながら順番待ちをし、自家用飛行機でやってきて、病院へ億単位の寄付をして帰って行くという。インドでは、生活のために腎臓を売りたい人が病院の前の道路に寝て、呼ばれるのを待っている。
 近い将来、完璧な人工心臓が開発されて、移植は不要になるかも知れない、その時を待ってはどうだろうか。

写真 広島平和記念資料館にて
ニコンF ニッコールf1.4 50ミリ

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