第92回 象の鼻150年を散歩しよう  横浜開港記念
6月25日号
   横浜は今年、開港150周年を迎えて、さまざまな記念行事が賑やかに開催されている。イベントの名前とスケジュールだけでもここに書ききれないほどだが、特筆されていいのは、6月2日にオープンした「象の鼻パーク」ではないだろうか。
 いま、公園を見下ろす山下臨海線プロムナードに立つと、ヨーロッパの、たとえばポルトガルの田舎の愛らしい小さな港を見ているような気になってしまう。右の大桟橋国際客船ターミナルと左の赤れんが倉庫群に包まれた狭い海域に、弓なりに伸びた防波堤。確かに象の鼻のようだが、大きさは仔象の鼻だ。ここが横浜港発祥の地だったとは!
 一偶に、森鴎外作の「横浜市歌」の歌詞を刻んだプレートが立っている。 「わが日の本は島国よ」に続く2番には、「むかし思えばとま屋の煙 ちらりほらりと立てりところ」とある。現在横浜市の人口は18区に365万人を超えるが、1859年の開港時は、現在の中区の一部程度の街でしかなかったという。森鴎外は、「今はもも舟もも千舟 果てなく栄えて行くらんみ代を 飾る宝も入りくる港」と結ぶ。
 この150年の歴史は日本開国の歴史でもある。日本は、果てなく栄えたか、宝が入ってきたか、野次馬的な興味が起こって、近接の横浜開港資料館を訪ねた。「港都横浜の誕生−新発見の資料に見る近代化の原点」(7月26日まで)を開催中だ。開港直後の横浜の写真とか、鎌倉事件の犯人処刑の光景のイラストなどを見て、門の脇のカフェで一休みをきめ込む。元領事官の守衛所を改装して2年前にオープンしたという。カフェの名前はフランス語で「ペリーの庭」。あれっ、ペリーはあの黒船来港のペリーだとすると、彼はアメリカ海軍の軍人のはず。黒船が来たのは1853年、日米和親条約は翌54年だから、59年の横浜開港と無関係とは言えないかも知れないが、イギリス領事館との関係は? 興味津々で聞いてみると、ただ店の名前に過ぎないとのこと。野次馬根性の惨敗でした。(笑)
 この守衛所を含む英国領事館が建てられたのは昭和6年(1931年)、満州事変の年である。日露戦争で日本をサポートしたイギリスとの間で結ばれた日英同盟は1923年に失効したが、領事館はその後に建てられたことになる。間もなく日本は国際的に追い詰められて、1936年の日米開戦となる。(横浜開港資料館では、7月29日より「ハマの中華街150年−多文化都市の果実」を開催予定。たのしみである。)
 象の鼻パークを出て日本大通りをまっすぐ行けば横浜球場である。一本左のみなと大通りにひときわエキゾチックな建物、横浜開港記念館だ。大正2年、開港50周年記念事業として計画され、同6年(1917年)に開館した。 同12年には関東大震災で屋根、ドームを焼失、昭和20年、駐留軍により接収、解除されたのは昭和33年だった。平成元年、國重要文化財に指定された。日本と横浜の歴史が染みこんだ建築物といえる。
 記念館前の交差点を、市営の観光スポット巡回バス「あかいくつ」号が曲がって行く。異人さんに連れられて行った少女が履いていたあの赤い靴である。

写真(上) 象の鼻パーク 中央の円形の石積みが、象の鼻の先端。後ろは大桟橋国際客船ターミナル。(山下臨海線プロムナードより)
写真(下左) カフェ・オー・ジャルダン・デ・ペリー(au Jardain de Perry)は旧英国領事館 (横浜開港資料館)の守衛所の建物を利用して2年前から営業。
写真(下右) 横浜市開港記念館 國重要文化財 観光スポット巡回バス「あかいくつ」号 が走っていく。
オリンパスE−420  ズイコーデジタル12−60ミリ

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