第89回 「愛の命日」と「おくりびと」
4月25日号
   作曲家の平尾昌晃さんが、札幌の音楽喫茶「ジョージの城」で歌っている美少女を見かけたのは、1968年のことだった。「色が白くて可愛かった。歌はうまいと思わなかったが。(笑)」札幌香蘭女子高校を卒業したばかりの熊木律子さんだった。この少女は平尾さんのスカウト第1号となった。  熊木さんは上京して、熊=ベアをもじって安倍律子として(その後、里葎子と改名)70年「愛のきずな」で歌手デビュー。いきなりミリオンセラーとなる大ヒットで、この年のレコード大賞新人賞を受賞した。  デビュー曲の作曲は鈴木淳さんである。平尾さんは札幌から帰ってすぐ入院、病気療養の身となった。安倍さんのための作曲は2年後の「お嫁に行くなら」までお預けとなった。 安倍さんはその後、橋幸夫さんとのデュエット曲「今夜は離さない」(83年)の大ヒットなどで、デュエットの女王ともいわれた。
そうして今年、安倍さんは歌手生活40周年を迎えることになった。事務所・オフイス里葎子の社長でマネージャーの笠間力さんを中心に新曲の制作に取りかかった。作曲はもちろん平尾さん、作詞は秋元康さんに依頼することになった。
昨年12月、作曲があがった。ラブソングをイメージしたというリズミカルな曲である。すぐに秋元さんに届けられ、1月、詩が出来てきた。タイトルは「愛の命日」。   読んで、平尾さんは「固マッテ」しまった。レコード会社のスタッフはヒキつり、笠間さんも頭を抱えた。不吉な言葉が、タイトルばかりか詩のなかにも「喪服」「棺」と出てくる。業界の常識としてあり得ないことだ!
 しかし笠間さんは、「もともと秋元さんの、時代に敏感な芸術家の感性に、歌手安倍里葎子の新しい可能性を求めて作詞をお願いしたのだ」と揺るがなかった。
3月、演奏者を集めて、スタジオ録音が始まった。その時、映画「おくりびと」のアカデミー賞(外国語部門)受賞のニュースが伝えられ、マスコミは騒然となった。いままで誰もがよけて通った「死」を語る時代が来た、と論評された。秋元さんの詩は、時代をぴたりと読んでいたのだ。
(アカデミー賞が「おくりびと」に与えられたのは、アメリカ社会が死を考えるようになったからだ、というのは間違いだと思う。「おくりびと」は死体を扱っているだけであり、死と向き合っているわけではない。これは死体処理業の青年を中心にしたホームドラマであることは、川本三郎さんが指摘された通りである。アメリカ映画は、戦争映画であれサスペンスものであれ、エンディングテーマは必ず、ファミリー。「家族がすべて」が映画の憲法のようである。「おくりびと」受賞はその延長に過ぎない。
 ついでながら、4月22日に授賞式があった2009年度の木村伊兵衛写真賞は、「浅田家」という家族のコスチュームプレイの写真だった。会場のスピーチでもいくつかのファミリー観が語られた。日本も「信頼できるものは家族だけ」というアメリカ的社会化が急速に進んでいることは確かだ。いや、その家庭さえいまやたびたび殺人劇の舞台となっている)
 「愛の命日」は恋人の死に直面した女性のうたである。安倍さんは、思いを込めて、切々と歌う。恋人の遺影に別れを告げた女性が、激しい雨の中を、頬を濡らして歩く情景が浮かんでくる。平尾さんもついのめり込んで、収録は遅くまで続いた。「こんなにうまくなったとは知らなかった。歌唱賞が狙える」平尾さんのひと言である。

写真上
(左) デビュー40周年を迎えた安倍里葎子さん。
(右) 左から平尾昌晃さん(作曲)、安倍さん、秋元康さん(作詞)収録スタジオにて
写真下
リリースされた「愛の命日」(筆者がかつて写真集を撮影した縁で、CDジャケットほかの写真を担当した)

オリンパスE−30,E−620 ズイコーレジタル50−200ミリ,14−54ミリ(アートフィルターを使用)

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