第80回 いま、記録映画がおもしろい  「いのちの作法」と「小梅姐さん」
12月10日号
 最近、テレビでもドキュメント番組がふえてきた。バラエティ番組があきられたのかもしれない。このご時世で、おばかタレントにつきあってゲラゲラ笑ってられないということもあるかもしれない。時を得たように、良質の記録映画が相次いで上映されている。ポレポレ東中野で、それぞれのプロデューサーにお会いして話を聞いた。


●「いのちの作法」

舞台となった岩手県の西和賀町は、秋田県との県境にちかく、豪雪と貧困と過疎の村である。生きるのに過酷なこの地域で、昭和30年代、合併前の沢内村の深沢晟雄村長が、 「住民の生命を守るために、私の命をかけよう!」
 と宣言し、昭和35年に日本で最初の老人医療費無料化を実行し、その2年後には乳児死亡率ゼロを達成した。この映画は、合併後も村長の意志を引き継いで取り組んできた村民たちの記録である。この種の映画にありがちな暗さもなく、気負うこともなく、密やかなウクレレの音と巧みなカメラワークとで進んでいく。
すでに岩手などで上映会を続けて、観客は2万人を超えた。ポレポレ東中野では初日上映のあと1っせいに拍手が起こった。雑誌「ぴあ」の出口調査では満足度1位となった。
 制作総指揮の武重邦夫さんは、この映画の「登場人物は、みな優しく気品がある」という。特別養護老人ホーム初代苑長・故太田受宣氏は、 「私たち職員が老人に優しさを与えているのではない、むしろ老人の優しさと暖かさに包まれている」といっているが、この言葉のように、映画も優しさに包まれている。政府の人たちには、ぜひ見てほしい映画である。
 武重さんは、今村昌平監督の片腕として、長く助監督を務めてきた根っからの映画人だ。日本映画学校(通称今村学校)が開いてからは学生とともに映画への情熱を燃やし続けてきた。「いのちの作法」の企画制作の22歳の双子の都鳥兄弟も、学校時代の教え子だという。録音、編集、助監督も卒業生だ。


●「小梅姐さん」

芸者赤坂小梅は1931年にコロムビアから歌手としてデビュー、「ほんとにそうなら」は、当時10万枚を売ったというから、今でいえば宇多田ひかるか、浜崎あゆみといったトップ歌手だった。本名向山コウメ。福岡県田川郡川崎町に今も残る「向山食堂」が生家である。16歳で、父親の反対を押し切って芸者になる。野口雨情らに歌のうまさを認められて、デビュー、いきなり大ヒットを飛ばした。1981年に引退するまで、昭和の半分を歌い歩んだ歌姫の1生を、数々の資料をそろえてつづった映画である。
 満州へ、戦地慰問の途中で夫の死の報を受けながら、ステージで「ほんとにそうなら、うれしいね」と歌ったこともあるという。
 歌手赤坂小梅のもう一つの功績は、「炭坑節」「黒田節」「そろばん踊り」(久留米機織り歌)など、埋もれていた民謡を復活させて歌ったことだろう。
プロデューサーの川井田博幸さんは、劣化ウラン弾など核問題に取り組んだ「ヒバクシャ」など社会派の映画を作ってきた硬派の映画人だけに、島倉千代子、舟木一夫さんなどの証言を通して得難い昭和史としても描いている。菅原都都子さんが軍隊慰問に出かけて歌ったとき、最前列の少年兵が歌の途中で突然立ち上がって敬礼し、特攻攻撃に出動していった話など、胸を打つ。(「小梅姐さん」は増永研一と共同プロデュース)

写真上
大:「いのちの作法」のスタッフの舞台挨拶。右から小池征人監督、武重邦夫(制作総指揮)、都鳥拓也・都鳥伸也(企画制作)、中越信輔(助監督)、森拓治(音楽))の皆さん
小:ウクレレで演奏する森さん
写真下
大:「小梅姐さん」の川井田博幸プロデューサー 
小:三味線で演奏する音楽担当の本條秀太郎さん
 いずれも「ポレポレ東中野」にて。
「いのちの作法」は12月28日(日)まで 「小梅姐さん」は12月12日(金)まで (10時40分からの1回のみ) 問い合わせは「ポレポレ東中野」03-3371-0088まで

E−520 ズイコーレジタル12−60ミリ 50−200ミリ

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