第68回 ブラジルへ−−藤崎康夫の「日本人移民物語」を読む
6月10日号
いまから百年前、1908年(明治41年)3月、移民会社「皇国殖民会社」の水野龍という人物が、ブラジル・サンパウロ州政府との間に日本人移民を送る契約を結んで帰国した。5月中に移民をサントスに到着させるというものだった。
 水野の契約は日本政府にとって渡りに船の話だった。当時、日本政府は、27万人の死傷者を出したロシアとの戦争で国家予算の5.6年分に当たる17億円もの戦費を使い果たし、財政的に逼迫していた。
 国民は不景気と増税に苦しみ、外国への出稼ぎが急増した。移民政策は外貨獲得の国策であったが、押しかける日本人移民に困ったカナダ政府は年間400人に制限し、アメリカ政府は移民を原則禁止した。
ブラジルのコーヒー農場で働けば、1家族3人で生活費別で一ヶ月に百円以上が残る、というのが募集の宣伝文句だった。当時の小学校の先生の月給は10円程度だった。 沖縄や鹿児島、熊本をターゲットに移民が募集された。移民船には笠戸丸が配船されたが、移民会社は、移民保護法による補償金の10万円の調達が出来ず、2週間遅れで、4月28日午後5時55分、第1回ブラジル移民791名は神戸港を出航した。夕闇が迫るころ雨になった。誰となく涙雨といった。
6月18日、笠戸丸はサントス港に入港。52日の航海だった。この日をブラジルでは「日本移民の日」と制定した。上陸して移民収容所に入って初めてコーヒーを飲んだ移民たちは、「こんな苦いもんを飲まんとならんか」と悲鳴を上げた。
苦いのはコーヒーの味だけではなかった。農場では早朝から日が落ちるまで3人で働いて、50銭ほどにしかならなかった。宣伝では1日3円80銭になるはずだった。ブラジルではコーヒー相場の暴落が続き、その為ヨーロッパ移民が減って、より安い労働力が必要だったのである。
農場に雇われていてはらちがあかない、と移民たちは、安い原始林を共同で購入し、開拓を始めた。1500家族が入植したが、独立農への道は厳しいものだった。巨大な樹木の伐採、移民小屋を建て、湿地に米を栽培した。が、そこはマラリアの巣だった。薬もなく、栄養も不足していた。死体となった母親の乳房を吸い続ける乳児もいた。イナゴの大群のあとには干ばつが、冬には霜の害でコーヒーの木は全滅した。かと思えば、ヒョウの被害の届けを受けた官庁では雹が降ったと解釈したが、実は豹が出たのだった。「ブラジルよいとこ だれいうた 移民会社に騙されて 地球の裏へきてみれば 聞いて極楽 見て地獄 こりゃこりゃ(中略)オンサ(南米豹)に食われりゃ 世話がない」農場で移民たちが歌ったうたである。
 1974年田中角栄首相が訪れたときの移民たちの句。[生き延びて首相迎える棄民の声 武田百合子]
 今年6月はブラジル移民100周年に当たります。作家でブラジルの邦字新聞「ニッケイ」の東京支局長の藤崎康夫さんにお話を聞き、著書の「ブラジルへ」(草の根出版会)「ブラジルの大地に生きて」(くもん出版)を読みました。(続く)

写真上  ブラジルの日系人は、140万人。ロンドリーナに近いアサイ町は、日本移民が作った町で、現在は2万人の都市になったという。(1990年頃撮影)
写真下  第1回移民を乗せてサントス港についた笠戸丸(「ブラジルの大地に生きて」より)

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