第55回 緒形拳2 腹8分目の真実
11月10日号
緒形拳さんのホームページは[H8BM]という名前が付いている。イヤにしゃれたタイトルだなあ、と思いながらよく見ると、緒形さん独特の文字で、[ハラハチブンメ]と出てくる。ナーンだ、そういうことか。いかにも緒形さんらしいタイトルだな、と思った。
しかし、実は、こういうタイトルをつけるのは、緒形さんはいつも目一杯、腹十二分目までやってしまうので、自戒を込めて「やりすぎるなよ」と、自分に言い聞かせているのだと気がついた。
先月のことだ。ひとり舞台「白野」の稽古場で、2時間、出ずっぱりの通し稽古を終えた緒形さんに、「おつかれさま」と声を掛けると、緒形さんは、「それが、疲れていないんだよね」と、肩を落としてえらくご不満のようす。「クタクタにならないと、ダメ。終わって余裕があるようじゃダメ」と深いためいき。たまにこういう日があるんだという。どうやら芝居の出来不出来は関係ないらしい。
冷静に演技の組み立てをして、舞台に上る、撮影に入る、というのが緒形さん流だと思っていたが、それだけでは観衆の心を捉えられない、自分の演技に納得がいく、いかないの次元ではない、ということを、緒形さんの身体は〈身をもって〉知っているのだろう。
 「楢山節考」(83年)は、車も電気もない山奥の廃村でロケが行われた。大町線の小谷駅からロケ地まで2つの山を越える厳しさだ。僕たち初心者は途中休み休み2時間は掛かる。緒形さんは何度も通ううち40分で登ってきた。しかも50キロ近い荷物を背負ってだ。ロケの後半、おりん婆さんを背負って姥捨て山に登る時の稽古なのだった。身体を作るということだけではなかった。
緒形拳、本名・緒形明伸、東京・市ヶ谷の生まれ。都立竹早高校卒業後、1958年「新国劇」へ入団した。芸名の拳は「こぶし」だったが、いつの間にか「けん」となった。「新国劇」は1917年に澤田正二郎らが設立。国の劇・歌舞伎に対して新しい劇という意味で、坪内逍遙が名付けた。当時は、歌舞伎とは違うリアルな立ち回りの『月形半平太』『国定忠治』さらに『白野弁十郎」などのヒットで、今でいえばSMAP的な人気があったらしい。緒形さんはあこがれの劇団へ入り、辰巳柳太郎、島田正吾の両師に師事した。辰巳さんは、「演技するな、何もするな」と教え、島田さんは、「たっぷり演れ」という人だった。と緒形さんは振り返る。
 66年、NHKの大河ドラマ『太閤記』の秀吉を演じ、全国的な人気を得た。66年には同じ劇団の女優の高倉典江さんと結婚。 1968年「新国劇」を退団。この退団劇は連日新聞紙上を賑わせて大騒ぎだった。その後は、『鬼畜』(78年・野村芳太郎監督)など映画と舞台で活躍。今村昌平監督の作品には欠かせぬ俳優でもある。 今年のNHK『風林火山』では、上杉側の軍師・宇佐美定満役で、武田の勘助との違いを際だたせている。
まじめで仕事熱心な緒形さんの逸話は数多いが、好奇心もまた旺盛だ。NHK『プラネットアース』では地球の僻地へ行った。マニラではお忍びでスラムへ出かけて、スタッフを心配させた。今年70歳の緒形さんに、今後演出をすることはないのか、と聞いた。答えは「ないない。役者が面白くて面白くて」だった。来年は、津川雅彦監督の映画に出演が決まっている。
 

写真 愛車は古いベンツ

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