第41回 いい歌がいっぱいあるじゃないか がんばれ森進一!
3月25日号
 あの「おふくろさん」は名曲だと言われているけれど、・・・発表された1971年にはレコード大賞をとって、その年の紅白のトリでも歌われたが、・・・確かに曲は感動的だが、歌詞は理屈っぽくて教条的、人生訓話みたいで直接胸に来る情感が乏しい。だからステージの演出家は、前フリを付けて「叱って欲しい、もう一度」などと情に訴えるセリフを足した。というのがぼくの率直な感想です。
 セリフはいわば絵の額縁みたいなもので、作品を盛り上げるものだったが、その前フリに曲をつけたので、どこからがオリジナルか分からなくなってしまった。(額縁の方が立派過ぎて、絵や写真がかすんでしまうことはよくあることなんです)。
今年還暦の森進一さんは、山梨で生まれ、鹿児島で育った。両親の離婚、最極貧の生活。集団就職で上京し、のど自慢大会を荒らしまくって、66年レコードレビュー。「女のためいき」はいきなり35万枚を売った。
「花と蝶」の発表は68年。パリ5月革命や東大安田講堂占拠、沸騰時代の頂点といわれる年です。文化面では川端康成のノーベル賞。芸能界では藤純子の緋牡丹博徒、そして「花と蝶」でした。実はこの歌曲こそ名作だとぼくは思っているのですが、作詞は「おふくろさん」と同じ方です。
森くんと僕たちがハワイへ撮影旅行に行ったのはちょうどこのころでした。デビュー間もなく歌謡界のスターになった森くんに、たぶん初めてのご褒美の休暇だったのでしょう。週刊女性の仕事で、航空券は日本テレビが用意してくれたと記憶しています。しかも「アメリカ本土往復のチケットだから、撮影が終わったら自由に使っていいよ」と夢のような話でした。このころ海外旅行はいまのように簡単ではなかったのです。
 そのときの森くんは極く普通の青年で、無邪気に海岸でアメリカ人の少女と並んで記念撮影をしたりしました。撮影では、ハワイの5つの島を全部回ったのですが、大自然だけのハワイ島などではすぐに退屈して、すぐにもワイキキへ戻りたがっていたことを思い出します。
 ハワイの撮影も終わり、ぼくは一足早くニューヨークへ行くことになった。それを知った森くんは、「ぼくも行く」と言い出した。同行のマネージャーは困りました。当時のニューヨークは危険な犯罪都市で、そんなところへ行って金の卵に傷でも付いたら取り返しがつきません。しかし好奇心のかたまりの森くんは、どうしても行くと、結局、同行することになった。
ぼくはソーホーに住んでいる友人を頼り、しばらく滞在の予定だった。そのロフトにジャズピアニストの秋吉敏子さんが来ると聞いて、森くんもいっしょに、マリワナの売人が次々と行く手をふさぐもっとも危険な地区に行った。ほとんど徹夜で語り合い、翌朝早く、 森くんはたった1晩だけの滞在で、休暇を使い果たし、帰っていった。
ぼくはそれ以来の森進一ファンです。

写真上 ハワイ島海岸にて。  写真下 ニューヨークにて。「沸騰時代の肖像」(文遊社刊)より。
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