第25回 最後の晩餐のメニューは? ダ・ヴィンチ・コード異聞
7月25日号
 ダ・ヴィンチ・コードを読んだ。(ダン・ブラウン著越前敏弥訳角川書店版)全世界の44の言語に翻訳され、5千万部を売った地球規模のベストセラーだそうである。 全編うんちくの固まりで、うんちくが次々謎を解き明かしていくというものだが、文学的香気のようなものは感じられない。  聖杯探しのスペクタクルであり、キリスト教の異端の物語でもあるこの本が、キリスト教の国ならともかく、日本でも1千万部の大ベストセラーになるとは、むしろこの方が大きな謎だ。  ダ・ヴィンチといえば、なんと言っても「モナリザ」と「最後の晩餐」で、この本でもこの2つの絵がベースになって物語が進んでいく。 ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は、イタリア・ミラノのサンタマリア・ディッレ・グラッツエ教会のもので、ごらんになった方も多いだろう。1494年から4年かかって描かれたれたというこの壁画が辿った様々な伝説も、すでにご存じだろう。 イエスが十字架にかけられる前夜の、文字通り最後の晩餐の時、イエスが「汝らの一人我を売らん」と言った瞬間のどよめきを描いたものだ。 「最期の晩餐」は多くの画家たちによって描かれた。ほとんど様式化された描写だったが、ダ・ヴィンチのものはその瞬間が写真の「決定的瞬間」のようで、僕たちカメラマンの血を騒がせる。ダ・ヴィンチはミラノの街の市井の人物を無数に素描して「その瞬間」を表現したという。  もう一つ違うのは、以前の絵ではユダは一人だけテーブルのこちら側にいたが、ダ・ヴィンチは向こう側に1列に並べて描いた。で、誰がユダか分からなくなってしまった。イエスの隣の人物はヨハネではなくマグダラのマリアだという説、彼女こそイエスの妻だったという説など、キリスト教徒でなくとも興味をそそられる。 ところで、この最後の晩餐のメニューは何だったのか、イエスは最期に何を食べたのか、長い間謎だった。テーブルにはいろいろ載っているが判然としない。キリスト教の歴史の泰斗である高橋正男先生(獨協大学名誉教授)にきいてみても、「記録がなく分かりません」とのこと。想像できるのは、過ぎ越しの祭の時期だったからパンは種なしのパンであろう。西暦0年のこのころは、小麦ではなく大麦パンだった。食器は素焼きの素朴なもので、葡萄酒は甘いポートワイン状のもの、ナツメヤシがあり、イチジクとか干しブドウもあった。・・・実はこれはイエルサレムの旧市街のレストラン「キュレナーレ」のメニューである。ここはローマ時代の食事を調査・研究して提供している観光レストランなのである。  さて、くすんで汚れていた教会の壁画を洗浄・修復して分かったのは、想像と余り変わらなかったが、何尾もの魚があり、聖杯は足つきのグラスでなくただのコップだった。  聖杯はどこへ?  しかし、あくまでもルネッサンス時代のダ・ヴィンチが描いたもので、すでに1500年を過ぎていて、ダ・ヴィンチといえども手探りだったはず。背景の壁紙の模様は、当時のミラノで流行したものであるという。

写真上 エルサレムに「最期の晩餐」の部屋が、知る限り2カ所ある。1つは観光案内にも載っているモーゼの墓の近くだが、旧市街の路地の奥のアルメニア教会の地下にも、歴史的な部屋がある。
写真下 ホテル・ヘドニズムU(ジャマイカ)のフロントの飾り。マグダラのマリアがモデルだとも言われる「モナリザ」は、多くのパロディをうんだ。(ヘドニズムは快楽主義)
ミノルタα9xi AF ZOOM 28-135mm エクタクローム

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