第22回 もう1本撮って欲しかった 今村昌平監督逝く
6月10日号
 昨年の暮れもおし詰まったころ、代々木のご自宅へお見舞いに伺ったとき、今村監督はほんど寝たきりの状態で、もう言葉も不自由だった。胸ふさがれる思いのまま、帰りぎわに「ちょっと」と奥さんから呼び止められた。
 キッチンのテーブルで「健さん、あなたの撮ってくれた写真がいいと思うの」そういう声がうわずっていた。何のことかすぐに分かった。そのときのための遺影の用意を告げられたのだ。「いずれ必要なのだから、お願いね」涙目の奥さんを見つめ返して、言葉もなくうなずくしかなかった。
 4月中ごろ、息子さんの?介くんからの電話が鳴った。「大至急準備してください」松田の山小屋で桜を見た後、急に出血があって緊急入院した。医者ももう持たないと言っているという。聞きながら、涙があふれてぽろぽろ落ちた。「イヤだいやだ。写真を使ってもらえるのは名誉かも知れないけど、うれしくないよ」とぼくは言っていた。とうとうその日が来たのか。ぼくは急いで、しかしのろのろとネガを探し始めた。
 まず「人間蒸発」(1967年)の時の若い監督。当時普通の写真のカメラマンだったぼくを、動く映画に使って見ようと監督が決めたのは何だったのか。いまとなっては聞いておけば良かったと思うばかりだが、はっきり言えることは、経験も技術もない、若いというより幼い素人を使うリスクを監督は一人で背負ったということだ。毎日毎日ほぞをかむ思いだったろう。が、一度も文句を言わず、すべてを我慢して許してしまう、大きな人だった。
 それから、ほぼ1本おきに監督のすぐそばで映画作りを体験させてもらった。助監督を希望したが、スチルの方が現場にいられるぞ、というわけだった。こんな幸運に恵まれたカメラマンはほかにいないだろう。「人間蒸発」では作品作りの原点を教わり、「復讐するは我にあり」(1979)では演出の極意を垣間見せてもらった。そして「楢山節考」(1983)は、とんでもない映画だった。スケールの大きさ、深さ。映画作りの過酷さと満足感を味わった。ロケ現場は2−3時間かけて登る山奥の、車も電気もない廃村である。この廃屋がロケセットであり、宿舎でもあった。監督が心身共に一番充実していた時期だったと思う。
昭子夫人が選んだのは、結局ここで撮った写真だった。あとは斎場で写真の寸法が決まるのを待つだけになった。
 幸い4月の危機は、医者の予測を裏切って持ち直した。監督はそれから1ヶ月半、大切な友人知人と別れを惜しむ余裕をもたれた。僕たちにも別れの準備の時間が与えられた。
5月30日、テレビが監督の死を伝えた。携帯が鳴って、?介君が写真の寸法を伝えてきた。
棺には次回作の予定だった「新宿桜幻想」のシナリオが入れられた。「黒い雨」に主演した田中好子さんは、棺の小ささに激しく泣いた。
(7月9日(日)お別れの会が開かれる。午後3時から6時まで、新宿小田急センチュリーホテルで)

写真上 「楢山節考」のロケ現場で。
ハッセルブラッド500c プラナー80mmF2.8

写真下 「人間蒸発」のころの今村昌平監督
ニコンF ニッコール50mm F2

close
mail ishiguro kenji