第20回 写真家と一緒に歩いた 石元泰博氏夫人滋子さん
4月25日号
 横浜の石元泰博先生の個展のときだった。久しぶりの歓談の途中で、滋子夫人は突然目の前のぼくを指さして笑い出された。「あのときの少年が石黒さんだったのねえ!」可笑しくてたまらないようすで、珍しく大声で笑いつづけられた。あの時とは、・・・
 その前に石元先生のことを少し話さなければならない。1921年サンフランシスコ生まれ、一時帰国するが近代農業を学ぶためふたたび渡米。第二次世界大戦ちゅうコロラド州の日系人収容所に収容され、このとき写真を始めた。1948年シカゴのインスティチュート・オブデザイン写真学科に入学。51年と52年に2年連続でモホリ・ナギ賞を受賞。1953年帰国、桂離宮を撮影。翌54年日本での初個展は写真界だけでなくデザイン界、建築界を震撼させた。
 草月流家元の愛弟子だった滋子夫人との結婚は1956年だった。
 そのころ写真誌で先生の「シカゴ」を見た少年は作品にとりつかれ、自分でも写真を撮り始めた。先生が桑沢デザイン研究所の講師であることを知り、入学したが、すぐには授業で接することが出来ない。撮った写真を一度見ていただきたくて、住所を調べ、豪徳寺の先生のアパートを訪ねた。留守だった。去りかねて、部屋に通じる階段に座って、待った。夕方、外のドアが開き、とっくりセーターでカメラを持った先生と後ろから三脚を担いだ滋夫人が帰ってこられた。というと何でもないようだが、階段に座ったうす汚い少年を見て、夫人がどれほど驚かれたか、いまならすぐに110番だったろう。
 夫人は少年を部屋に招き入れてくださった。部屋はほとんどのスペースをダブルベッドが占領していて、枕のあたりに白木を刻んだ神楽のかしらが置いてあったのを覚えている。
 先生はベッドの横で写真を見てくださり、黙って返された。後で知ったことだが、先生が良いと思われた時は「ありがとう」といわれ、だめなときは黙って返されるのだという。いま思えば先生の作品をそっくりまねた写真ばかりで、思い出すのも恥ずかしい。が、このときの経験は、以後ずっと作品を自己評価するときの基準になった。先生に「ありがとう」といわれるか、黙って返されるか想像するのだ。ぼくだけではない、写真を学ぶものの多くが、いつの間にか先生をいわばリトマス試験紙として自問自答しているのである。
 1997年、先生夫妻に「婦人公論」の連載で「夫婦の肖像」に出ていただき、滋子夫人に書いていただいた。
「(私たちは)結婚式なし、会員制パーティあり、という簡単なものだった。パーティのあと、雑誌の取材もかねて京都へ行った。ホテルに着くと早速ジーパン姿になって街に出た。三脚の重さはすでに知っていたが、初めて持たされたレンズの重さには驚いた。そしていつの間にか露出計を持たされ、「光線がどっちから射しているのか分からないのッ」などと叱られるハメになっていたのである。以来、私は、泰博のドジにして無給の助手である」
 三月末、「石元滋子さんを偲ぶ会」から封書が届いた。「春の訪れを前に、私どもの敬愛する石元泰博氏夫人滋子さんが2月22日急逝されました。直前まで朗らかにすごされていたのに、本当にいまでも信じられません。難しい大先生のお相手はもちろんのこと、至らない私どもにもいつも優しく接してくださいました。私たち皆がどれだけ助けていただいか知れません。それなのにあまりにもあっけなく逝ってしまわれた奥様に対し感謝の気持ちをどうお伝えしたらよいのか、気持ちの持って行き場がありません」

写真 三脚は重く、冬は氷を抱いているように冷たい。(婦人公論「夫婦の肖像」より)「一緒に歩いていると、あれを撮るな、と分かるんです」

ハッセルブラッド500c プラナー80mmF2.8

close
mail ishiguro kenji