第16回 「憂国」と「二・二六事件」 背景に格差社会・・現代と酷似
2月25日号
「昭和11年2月26日、青年将校たちは、ただ一人だけ盟友を誘わなかった。彼がまだ新婚で、その妻と愛し合っていたからである。」彼、武山中尉は「やがて反乱軍の烙印を押された親友たちと殺し合わねばならぬ運命になった。」
三島由紀夫の映画「憂国」のシナリオの冒頭である。自決を覚悟した中尉は愛する妻と最期の交情、「お互いの肉体のすみずみにまで念入りに別れを告げ」て割腹する。夫の死を見守ったあと妻も凄惨な死を遂げる。三島は「日本人のエロースが死といかに結びつくか」がテーマだと書いている。
 映画は、39年に企画され、1月に台本が完成。プロデュサー藤井浩明、監督堂本正樹。主演の武山信二中尉には三島自身が扮し、妻の麗子役は「妖艶でありすぎてもいけず、色気がなさすぎてもいけなかった。」難航の末大映の女優だった鶴岡淑子さんに決めた。彼女は初めて三島に会ったとき「今日はヤクザみたいな人に会ったわ」と母に言った。
 4月15日クランクイン、大映のスタジオで2日間で約170カットを撮影。全編ワグナーの「トリスタンとイゾルデの愛と死のテーマ」が流れ、セリフなし能形式の白黒スタンダード35ミリ作品。27日には音入れ、完成した。上映時間29分。
 最初に見た当時の永田大映社長は、「三島君、おそれ入ったよ」とほめた。そのあと映画は世間に隠されていたが、翌年1月、東京新聞がすっぱ抜いた。9月にツールの国際短編映画祭に出品。「憂国ー愛と死の儀式」は惜しくもグランプリを次点で落とした。
 原作の小説「憂国」は昭和35年の「小説中央公論」12月号に掲載された50枚ほどの作品であるが「もし私の小説を一編だけ読みたいという人があったら、広く読まれた「潮騒」などよりもむしろこの「憂国」一編を読んでもらえれば・・・」というほど三島にとって愛情のある作品だった。 70年まえの昭和11年、11才だった三島の胸には、決起の青年将校たちが悲劇的な英雄として刻まれたという。
 二・二六事件の資料や研究書・著作は幾重にも重なった山脈のようであるが、一言でいえば「北一輝の思想『 』の実践として、決起の機をうかがっていた皇軍派将校が、第一師団の満州派遣という差し迫った状況にせかれて蜂起を決意したもの」であろうか。
 記録的な大雪の未明、「昭和維新」を掲げた青年将校に率いられた約1500名が首相官邸などを襲った。首相の岡田啓介は誤認で義弟が犠牲になり無事だったが、内大臣斉藤実、蔵相高橋是清、陸軍教育総監渡邊錠太郎が殺され、従長の鈴木貫太郎は重傷を負った。部隊は永田町から三宅坂を占拠し政治機能は麻痺した。
 一時は軍中枢も「諸子の行動は国体顕現の至情に基づくものと認む」としたが、天皇の討伐命令により、義軍は一転して逆賊となった。事件は29日に収束した。
決起を主導した青年将校のうち2名が自決、残る将校など19人が死刑となった。北一輝は、昭和12年8月19日、銃殺された。
 北一輝を信奉し、事件の主導者となった磯部浅一は、獄中日記に「天皇陛下、何という御失政でありますか、何というザマです。皇祖皇宗におあやまりなされませ」 と書き記した。
三島由紀夫は「二・二六事件と私」の中で次のように述べている。
「二・二六事件の悲劇は、方式として北一輝を採用しつつ、理念として国体を戴いた、その折衷性にあった。挫折の原因がここにあったということは、同時に彼らの挫折の真の美しさを語るものである。この矛盾と自己撞着のうちに、彼らはついに自己のうちの最高最美のものを汚しえなかったからである。」
 当時は、貧富の差が激しく、都会と農村の格差など、いまと酷似の状況だったという人もいる。ホリエモン逮捕のあと、なぜか三島作品が売れているともいわれる。昭和24年に起きた「光クラブ事件」をモチーフにした「青の時代」が通常の10数倍の売れ行きという。「光クラブ事件」は、東大生の山崎晃嗣がヤミ金融「光クラブ」を設立、高利でボロ儲けをして急成長したが、裏の不正行為が摘発され、事業が破綻。山崎は青酸カリで自殺した。
「私は法律は守るが、モラル、正義の実在は否定している。合法と非合法のスレスレの線をたどっていき、合法の極限を極めたい」
 ホリエモンではない、山崎晃嗣の語録である。

写真上 昭和41年発行の「憂国ー映画版」(国会図書館で)。映画のフイルムは三島の死のあと瑤子夫人の希望ですべて焼き捨てられたと言われたが、このほど原板が出てきた。三島由紀夫全集(新潮社版)の別巻として4月にDVDが発売される。

写真下 渋谷区役所裏の二・二六事件慰霊像。当時この場所は陸軍刑務所の処刑場だった。

オリンパスE-500 ズイコーデジタル14-54ミリ,11-22ミリ

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