第10回  横浜トリエンナーレ2005 観客が参加するアートとは? 
11月25日号
 みなとみらい線の終点、元町・中華街駅でおりると、構内は「アートサーカス・日常からの跳躍」などと書かれたステッカーがあふれている。山下桟橋の保税倉庫を主会場として、横浜トリエンナーレ2005が開かれている。
「サーカスのように、いろんなものが次々飛び出してきて、見る側と見せる側が一緒になって様々な体験を重ねていく、運動体としての展覧会である」とパンフレットの説明は難しいが、なにやら面白そうだ。
会場のゲートから桟橋の突端の主会場まで10分。通路は赤白ストライプの3角旗に飾られて、11月のやや冷たい海風が不思議にここちよい。このアプローチがすでにダニエル・ビュランというフランスの作家の作品なのである。(ゲートからバスもあるが、歩くことをお勧め)
トリエンナーレの入場者が、11月18日に10万人を突破した。この機会に総合ディレクターの川俣正さんに話を聞いた。
まず『運動体としての展覧会』というのは、平たく言えば見る人が参加するということらしい。たとえば、食堂のお座敷にあるような長テーブルに弦が張ってある作品(ワン・テユ=台湾)。観客は靴を脱いで座敷に上がり、食事をするように、本を読むように、弦をはじいて音を聴く。そのような観客とのコラボレーションが考えられている。
 ここには世界30カ国・地域から86名のアーチストが参加しているが、ほとんどの作家が、この場所を見てから作品に取り組んだのだという。その結果、たとえば埠頭の突端に白い鯨(ナリ・ワード=ジャマイカ)が打ち上げられていたりする。場所との関係、見る人との関係、また見せるための仕掛けを作ることで作品が違うように見えてくる、と川俣さんは言う。奈良美智さんの少女趣味とも思えるイラストを、GARFという建築家のグループが海を望む廃屋に閉じこめた。このコラボレーションによって、確かにある種の驚きを与えてくれる。
問題はアートをショーアップすることのぜひではない。アピールを求めるのは必要だと思うが、そのような作品が、見る人、関わる人の表面ではなく、人間の深みまでに届いて行くかどうかではないか。
 アートは癒しだ、人の心の闇を照らし、傷を慰める。慰め癒さないものはアートではない、と言う人がいれば、はっきり言おう、それは間違いだ。
 アートは癒さない。アートが何らかの世間的な価値を持つとしたら、それは「覚醒」である。人の無意識の奥深くまで忍びこんで、人間の真実を知らせてしまう無頼の行為こそアートだと思う。
さて、僕たちカメラマンは、1年か2年に1度、撮りためた作品を発表するのが作家としてのアイデンテティでもある。アマチュアも作品展を目指して撮影にいそしむ。思いは同じだ。そして、たいていはギャラリーの4面の壁に写真をきれいに並べて見ていただく。
 見る側も、静かに作品と対峙してアートの世界にひたる・・・。いままでなら見せるための特別な工夫など、芸術作品には関係ないことで、大衆におもねることは潔しとしない、そもそもディズニーランドや万博にはかなわないではないか。と避けられてきた方法である。
 とりあえず、トリエンナーレを見てから、次の自分の作品展を考えてみるのも良いかも知れない。(12月18日まで。毎日イベントがある)

大腸をイメージした外観がそのままカフェになっている作品の前で、総合ディレクターの川俣正氏。「大腸の中で食べたり飲んだりしているわけです」。写真の手前の影は筆者の影である。カゲながらアートに参加のつもり。
コニカミノルタα-7digital AF DT zoom 18-70mm
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