第8回  おらが蕎麦屋1・・・新そばの季節に、つゆにこだわる
10月25日号
 そば好きなら誰でも一軒や二軒の「おらが蕎麦屋」を持っている。なじみの店に、 「今年も新そば打ち始めました」
 と手書きのビラが出ようものなら、たまらず自動の格子戸の前に立つことになる。重厚でもなく華美でもない、質実剛健というべきたたずまいの、京橋の美々卯である。
 まず、そば湯を肴に熱燗を頼む。たまにニシンのうま煮をつまむ。石臼でひく自家製粉の蕎麦の香りを待つ。至福の時間である。
 ずいぶん前だが、大阪の美々卯本店へ取材に行ったことがある。改装前の囲炉裏のある部屋で、うどんすきの写真を撮った。当時の社長薩摩卯一さん自ら調理の箸をとってくれる。その間にいろいろ話を聞いた。まず、出汁のレシピを主婦のために公開していること。
「そんなことして良いんですか」と驚いた記憶がある。
「ははあ、分かりました。素人にはまねの出来ない秘伝があるんですね? 秘密のコツが」
「そんなん、おまへん」
 納得がいかない。
「水が違うとか? 」
「へい、水道の水です。普通に濾過してまっけど」
 なぜかすっかり感心してしまった。
 蕎麦の話のはずなのに違うじゃないかとお叱りを受けそうだが、少し待っていただきたい。かって「美々卯文学賞」なども出していた大阪の老舗は、かたくなに支店を出さない方針でいたが、万博に出店した時のスタッフのために東京進出を決めたという。東京といえば、うどんよりも蕎麦である。美々卯は猛烈に蕎麦の勉強を始めたのだという。
 ところ変わって、池袋の「一栄」。かねてこういう「蕎麦特集」の時にと狙っていた店である。お世辞にもきれいとは言えない店で、「もり」をいただく。際だって喉ごしの鮮やかな香り豊かな蕎麦である。つゆも辛目であっさりしている。
 「一茶庵」創業の片倉康雄氏のもとで修行した主人の森田高虎さんに、日ごろ疑問の初歩的な話を聞いた。まず最近特に感じていること、普通の店ではどうしてつゆが甘いんでしょう?
森田さんは笑った。
「甘くしないと若いお客が逃げちまうからよ」
 蕎麦がだめならつゆを甘くしないともたない、反対に八割、九割のちゃんとした蕎麦なら、蕎麦自体が甘いので、つゆは辛くて良いんだと。ちなみに一栄のつゆはカツオと椎茸を少し。そこで、美々卯のカツオだしのことを聞いた。
「うん、美々卯さんの前の社長と一茶庵の片倉さんは仲が良くて、蕎麦のことを詳しく教えたんだよ。うどんのことは逆に教わってね」
再び美々卯で、奥田力調理部長。「つゆだけはカツオ一本で行こうと決めて、なじんでもらうのに二年かかりました。いまでは薄いと文句のお客さんはいません。寒目近を中心にブレンドしています。作ったつゆはその日に使い切ります」
(蕎麦屋さん特集は時々続けたいと思います。ぜひ「おらが蕎麦屋」をご推薦ください)。

写真上 池袋「一栄」(tel:03-3987-7051日曜祭日休み)の森田氏。午後四時ごろ五人以上で来てくれたら十割蕎麦を打って上げると約束してくれた。だだし「一言の客はイヤだね」。
写真下 「美々卯」京橋店(tel:03-3567-6571年中無休)で。「毎日朝から東京4店分を削っています」。この道一筋、鰹節削り25年の大松昇氏(69才)。
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