第3回 千鳥が淵へ行きましょう 蝉時雨が伝える思い
8月10日号
 参道と言うには簡素な墓苑へのアプローチで、激しい蝉しぐれにおそわれた。梅雨は明けたが、蒸し暑い日だった。
 墓苑には人影もなかった。六角堂の中は、六角の形のままに薄茶色の土の池があり、その中央に大きな陶のひつぎが置かれている。正面に菊花が並べられ、ひつぎの前に酒と花が供えられている。
 戦没者墓苑奉仕会の人にきいた。
「一年に一度厚生省の役人がきて、そこの土に隠れている入り口を開けて、地下の納骨室を点検して帰っていきます」
 ここ千鳥が淵戦没者墓苑には、太平洋戦争の無名の犠牲者の遺骨だけが納められている。最近では厚生省のDNA鑑定によって、毎年数体の名前が分かり、遺族に返されるという。
「名前が分かれば出ていって、靖国神社に行くんですか? 名前が分かっても、ずっとここにいればいいのにね。靖国から引っ越してきたい人がいれば、どうぞって入れてあげたい。向こうと違って静かだし」
 奉仕会の人は苦笑した。
「ここはいろんな宗教の方がお参りに来られます。天皇も、首相もこられました。それ以外はいつも静かで、桜のころは賑わいますが、普段は・・・」
 奉仕会の人の目線を追うと、無人と思われた墓苑の日陰のベンチにOLらしい若い女性が二人。昼の弁当とペットボトルを持参である。
とてもいい風情に見えた。花見の賑わいや昼の憩いこそ、何よりも鎮魂にふさわしいと思われた。
 帰り道、洪水のような蝉しぐれが降りかかってきて、前にも増して耳の奥に鳴り響いた。 靖国の240万の戦士たちの誇りのかげに、ただ戦い、あるひは戦うすべもなく犠牲になった名もない遺骨たち。彼らの悔しさの声が鳴り響いているのかも知れなかった。

千鳥が淵戦没者墓苑には、35万926体(2005年5月現在)の遺骨が眠っている。太平洋戦争の無名の犠牲者の遺骨である。
オリンパスE-300 ズイコーデジタル7-14ミリ
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