第17回  ルビコンを渡る豊里友行(3) 写真集 『沖縄戦の戦争遺品』
'21 5月号
・2021年01月30日
「写真は愛だ。今の私が視た沖縄をあるがまま提示したい。その開花は、これまでの批評眼をいったんクリアにしないと私の根幹をぶっ壊してしまう」
「東松照明の占領、加害と被害では沖縄は、もう語れなくなっている」
 1月30日といえば「コロナ元年より」の編集の最終段階の時期であろう。この日も豊里友行は撮影に出ていた。もしかしたら、琉球国王之印のレプリカの接写だったか、それとも『沖縄戦の戦争遺品』の撮影で国吉さんの家へ行っていたか。

・1月30日
「今日の撮影で写真集の方針に感情の変化があった。過去に写真試行した批評性を繰り返すのは、やめにしよう。」

・1月30日
「のたうちまわる私の葛藤をあるがまま受け入れよう。人間を差別しない。そのことから始め、そこからしか今の私は、始まらない。」
 写真は愛だ、とこの日3度繰り返し投稿した。
 豊里の愛とは? そして自ら言う変化とは、何なんだろうか?

・2月18日
「風が冷たい。だがなんかポカポカとした幸福感につつまれている」
「私にとって情熱家の土門拳の写真作法は、一瞬で19の春に戻れる書物なんです。写真集だって読み物だ。だから私の伊兵衛ちゃん、私の土門ちゃん、なんです、なんてね」
 入稿が終わって、印刷所から大きな荷物が届く日を待ちながら、何度も経験済みだが、少しの安堵と独特の昂揚感が交差している。
 発行日の朝が来た。

・2月28日 08:38
「おはようございます。写真集を出すのもいいがドキュメンタリー写真の撮影がおろそかになっていました。寸暇を惜しんで撮影と写真集に」
 この日も撮影に出ていた。おそらく戦争遺品の撮影だろう。帰ると、荷物の山だ。
 その夜はさすがに眠れなかった。日付が変わるころ、

・3月1日 0:49
「『豊里友行の沖縄写真特急便 コロナ元年より』を読みながら 感服する。すごい。沖縄写真特急便は、4回に渡る写真試行の写真集実験。残り3回を辞めようかぐらぐらするが、このあふれるパッションのマグマを止めるもんか。」
 夜が明けると、豊里はカメラを持って沖縄県庁前広場へ急ぐ。この日から、具志堅隆松さんたちが 「自然公園法33条2項」を玉城デニー沖縄県知事に求めて、ハンガ―ストライキをはじめるのだ。「日本政府は名護市辺野古で米軍の新基地建設のため海の埋め立て工事を進めているが、埋め立てに使う土砂に沖縄戦当時に激戦地だった南部の、遺骨が眠る土砂を使おうとしていることに、ガマフヤー(ガマを掘る人の意)は厳しく抗議している。」と豊里は説明する。(その後、具志堅さんたちは東京・靖国神社でも、今年8月14〜15日、豪雨の中、ハンガーストライキを行った。)

・3月4日 1:42
「初日、二日、三日、顔を出す。取材不足ですが、ポツンとくたびれてます。」

・3月6日 22:46
「私は、写真を撮る衝動よりも現場にいることを噛み締めていました。いけないなーとは思うのですが、見つめることしかできない写真家なりのウムイをこれからもあたためていきます。」

・3月9日 0:03
「今の今、写真の手枷足枷がやっとはずれたようだ。君は涙しながらシャッターを切ったことがあるか。藤井秀樹先生は、写真学生たちに尋ねた。ミスター沖縄!東京にしがみつくな。初心なんだろ。背中を押してくれた先生のひと言で激動の沖縄を撮り続けるケツに火がついたかな。足りない頭や体ですが、コツコツと俳人で写真家してますよ。
 降り積もる菊よ
 沖縄の歯車よ
 涙しながらシャッターを切る・切らせる関係性とは何なのか。写真は刃だが、ゆるしあう域には、ファインダーのいわゆるメカニックを越えた関係性がある。それは、絆という名の愛だ。写真機の特性を活かした記録性に躍起になっていた私にある方のコメントを、いま、噛み締めているデキノワルさよ。もっとフラットに。カメラ以前のあなたの眼で見てください。」
 いきなり、日常が豊里の前に立ちふさがる。

・3月10日 11:11
「いざっ!確定申告へ。あっ。書類を忘れて引き返す。えっ。整理券、今日は終了。ズッコケルこと、2回」
 いつだって日常は意地悪だ。

・3月11日
「写真家も、また敗北し続けるのかもしれない。それでも撮り続ける。それでも写真をかざし続ける。全力疾走で時代を追い越して未来を変えてやるのだ。ずっこけても。何度でも走り出すのだ。」
 そして、開高健の言葉を書き記す。
「徹底的に正真正銘のものに向けて私は体をたてたい。私は自身に形をあたえたい。私はたたかわない。殺さない。助けない。耕さない。運ばない。煽動しない。策略をたてない。誰の味方もしない。ただ見るだけだ。わなわなふるえ、眼を輝かせ、犬のように死ぬ。」
 ルビコンを渡る条件は、武器を持たないことだ。武器さえ持たなければ、そのあたりの住民のように自由に往来できるのだが、豊里は幸か不幸か武装のままだった。カメラマンにとってカメラは武器だが、豊里にとっては、それは自分に向いて火を吐く畏るべき危険なやつだった。
oooo
・2021年 4月1日
「おはようございます。起きたら身体が、どーぶにぃやむるよーなっ感じがするよーな。母の病院付き添い。そろそろ『沖縄戦の戦争遺品』(新日本出版社)が、届く頃かな。」

・4月2日
「遺骨収集は、9年の取材と今の今までの戦争遺品の撮り卸しです。こーてぃきみそーれ(御購入ください)行商して歩きますね。物撮りは、ドシロですが、言葉と写真試行を仕掛けてあります。歴史の深淵な闇から帰るべき場所へ帰れずに埋もれた戦没者の尊厳を照射し浮き上がらせたい。かなり無謀な写真家の飛翔を試みました」
 豊里は、すでに07年12月から国吉さんの遺骨収集に同行し、撮影してきた。今回の写真集には、60年あまり黙黙と収集を続けてきた国吉さんが遺骨とともに持ち帰った遺品の中から、懐中時計やめがね、万年筆、手りゅう弾など63点を収録した。(出版案内より)
 豊里自身が認めるように、ブツ撮りはうまくない。照明も背景も十分とはいえない。が、豊里友行のブツは何かをぶつぶつつぶやいている。
 そして、後半には国吉さんが登場して、捨てられた遺骨と豊里と3人で、沖縄のウムイを静かに黙黙と語りはじめるのだ。
 収集の現場は、たどり着くまででも困難で、怖気づいて入れない洞窟もあった。掘り出してみたら、不発弾だったこともあった。暗くて撮影が出来ない洞窟も多かった。
 遺骨や遺品のあのにおいは、「沖縄戦が繰り広げられた原野や洞窟、海辺の匂いがこびりついているのだと気づいた。」
 国吉さんの遺骨収集は、「愚直なまでに誠実に死者と向き合うことだった。その姿は私たちになにを示しているのだろうか。」と豊里はつぶやく。「私は、沖縄戦や基地を写真に撮ろうとする時、心の底から鈍い痛みがこみ上げてくる。」

 広島や長崎など、"戦争遺品"は、多くの巨匠が撮影し、発表してきた。懐中時計や万年筆、めがね、被爆した衣服などは共通アイテムである。克明な描写、巧みな照明、最新機材を駆使した高度の完成度。だが、清潔で匂いのしないそれらの多くは、知らずに見れば珍品のコレクションのカタログかと思われるものもあることに、筆者はいつも疑問と不満があった。
 『沖縄戦の戦争遺品』は、国吉勇さんと遺品たちと沖縄と、つまり被写体との貴重な共著になり得た写真集だ、と言っていいと思う。
(つづく)

『沖縄戦の戦争遺品』
185mm x 165mm カラー(一部モノクロ)96ページ 新日本出版社刊 定価2400円+税
 
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