第16回 ルビコンを渡る豊里友行(2) 写真集 『東京ベクトル』
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それにしても、沖縄へ戻ってから10年である。樋口先生でなくても、今更東京とは? その間、いったい何をしていたのか。……豊里のブログは忠実に語っている。
「04年11月頃から僕は、名護市辺野古のボーリング調査阻止行動を取材する。防衛施設局側の作業員と調査の阻止行動を行う反対派住民との間に緊張が走っていて僕は、写真家としての現場に取材に入った」
「05年1月5日から名護市を皮切りに辺野古の現状を知らせる豊里友行写真展「海鳴りの島から〜辺野古の記録〜」が沖縄県内で巡回展をする」 この写真展は、本土でも石川県などで開催された。
そして、「週刊誌などで辺野古の現状を知らせるための写真家としての仕事を」、無料で提供した。「反戦運動に対して僕の写真を利用することで名護市辺野古のボーリング調査阻止行動への写真家としての僕自身の姿勢を示した」
立派にフォトジャーナリスト以上の仕事をしていたのである。と同時に、多くの反省点も浮上した。阻止行動に参加しながら、現場での撮る側と撮られる側の基本的な問題である。
「ただ写真を撮る事しか出来ない僕は、自分のコンディションを心配しつつも、現場に張り付いて入れないぐらい心のゆとりがなかったためにかなり時間のゆとりをゆるされなかった。自分のできる範囲をこえて走り回っていた。新聞社、テレビ局などのマスメディアがある中で僕のような写真家が何を伝えるべきか考えていた」
このころのブログは、豊里の揺れる心そのままに、右往左往して繰り返しが多い。
豊里はおそらく気づいていたのだ。いわゆる「報道写真」の危うさ。たとえば行きずりに偶然遭遇した情景をスマホで撮影した18歳の女性の動画が、メデイアに載ることで「報道写真」となり、ピューリツアー賞を贈られる危うさに、寄りかかることは出来ない。
「写真家としての姿勢を崩さず、阻止行動を記録すること(冷静に現場を視ること)。阻止行動に迷惑をかけないこと」
闘争の現場で、豊里の関心は人間の方に向いている。「僕自身の写真活動と被写体となる人々との関わり合いにおける反省点は、今後も試行錯誤しながらも写真撮影をしていく」と、結論めいた投稿をブログに記している。
ルビコンとは、絶対非演出の絶対スナップの方法を源流とするリアリズム写真の流れのことであるが、豊里は、流れに逆らって、リアリズムの飛沫を浴びながら立ちすくんでいるように見える。
豊里は「反省点」とさりげなく記しているが、闘争の現場で対立する敵と味方、双方が、かつての「僕の友達」といっしょくたになって、豊里の脳裏に忍び込んでくることに戸惑っているように見える。「どうしょうもないくらいの孤独を抱えた陽気な彼ら」の心の闇から、逆に、一斉に凝視されている自分自身を持て余している、ように筆者には見えるのだ。
これを片づけなければ、自分の沖縄を写真集にすることなど出来なかった…。
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『東京ベクトル』を開いて最初の一枚は、昭和の丁稚奉公の少年の写真である。彼が佇んでいるのは、新聞販売所の店先だ。
原爆の野に取り残されたヒロシマの少年のようでもある。
この豊里の自画像を、筆者は長く見詰めることが出来なかった。少年が大人になるときの、あこがれ、怖れ、悲しみ、が胸に沸いてきて、なぜか眼を閉じるしかなった。
写真集は6つの章に分かれ、それぞれタイトルと豊里自身の解題から始まる。本のタイトルともなった「東京ベクトル」の章では、「大都会のベクトルは日本という國の方向性を示す羅針盤を孕んでいる。東京ベクトルはいったいどこへ向かっているのだろう」とやや教科書的だ。
中程に、あの「僕の友達」が「野宿者たちの唄」と名前を変えて出てくる。全体の構成の為か、枚数が少なく、初めて見たときの迫力が失せているのが残念だ。
冒頭の「新聞販売所」の章では、「私という写真家の育ての親は、私の親や写真学校はもちろん、学費や生活費になる給料を払ってくれた新聞販売所といえる。この新聞販売所による奨学金制度のおかげで、私は青春の大舞台である東京で写真家への道を志した。」と豊里は解説している。
初めての写真集『東京ベクトル』は単に「沖縄」までの通過儀礼などではなく、東京という名の青春に別れを告げる決別の書だったことに間違いない。
そしてなにより、作家のすべては処女作に宿る、ことも間違いないのである。
『東京ベクトル』
A4横右開き 150ページ 沖縄書房刊 定価3000円+税
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