第15回  ルビコンを渡る豊里友行 写真集 『豊里友行の沖縄写真特急便 コロナ元年より』
'21 3月号
  ルビコン川は、幅約1メートル、広いところでも5メートルほどの浅い川だそうだが、これを渡るには大きな覚悟が必要である。先ず、渡るべからずという禁則を犯し、定説を覆し、世間的な義理も欠く。
 渡ったら最後、もう後戻りは出来ない。たちまち周りは敵だらけ、後ろの味方も敵に変わる、かもしれない。
 しかし豊里友行は、今年の春、正確には2月28日、左手にカメラ、右手にペン、頭上に一冊の写真集を掲げて、いとも簡単にしゃあしゃあと問題の川を渡ってしまった。

 何はともあれ、彼が掲げている写真集を見てみよう。
 表紙は打ち手の小槌か。正月飾りのようでもあり、ロードス島に立てこもった十字軍の紋章のようでもある。巻末の作品データを見ると、単に沖縄市とあるだけだ。タイトルもなんだかサブタイトルのようで、よくわからない。
 A4版、表紙、裏表紙を入れて全102ページ。紙の白地が出てくるのはデータ記載と奧付の2ページだけ。黒縁の写真はすべて見開き、つまりA3サイズの写真が表紙裏見返しから裏表紙見返しまでびっしりと埋め尽くす。
 最初の1枚は彼の母校の解体前の黒板の落書きで、次は那覇市国際通りだ。筆者も沖縄には何度も通い、国際通りも数十年前から知っているが、この写真のような「こくさいとうり」は初めて見た。次の読谷村も沖縄市も知らなかった沖縄だ。そして、糸満市・鎮魂の塔の前で心を乱され、平和の礎の巨大な花に圧倒された。その次は、いったいこれは何だ、沖縄市コザの通りのスナップらしいが。
 初めて見る沖縄は、同時に初めて見る豊里友行である。2017年にさがみはらプロの部新人奨励賞をとった『オキナワンブルー』(未來社)でも、 『南風の根』(2017)でも、『おきなわ辺野古の貌―いまを撮る』(2020)でも見かけなかった沖縄だ。
 1999年からずっと沖縄を直球だけで撮り続けている豊里が、急に変化球を覚えて投げ始めたとも思えない。写真編集者の松本太郎氏も、「いま沖縄の写真家で最も現場へ足を運び続けているのは誰かと聞かれれば迷うことなく豊里友行の名を挙げる。」と書いておられる。先ず、なによりも現場に駆けつけ、状態をこの目に焼き付け、シャッターをきる。写真ジャーナリストの原則を彼は忠実に守っているはずだから。

 豊里友行は1976年、沖縄県生まれ。県立コザ高校卒業後、日本写真芸術専門学校に入る。樋口健二ゼミで鍛えられ、1999年3月卒業。沖縄に帰郷し、ウチナーンチュ(沖縄の人)としての沖縄問題をテーマにカメラで取材活動をスタートする。……これは豊里が自分のブログで公にしている自身の経歴だが、ふと気になるのは、「1995年、野ざらし延男氏に俳句講座で学ぶ。」の項だ。さらに、2002年『バーコードの森』豊里友行句集発行、とある。 第三十七回沖縄タイムス芸術選賞奨励賞(文学部門・俳句)受賞、というのもある。
 写真集は2008年にようやく『東京ベクトル』豊里友行写真集(沖縄書房)発刊、と出てくる。気がつけば、経歴書の見出しの肩書きは、豊里友行(とよざとともゆき)=俳人、写真家、であった。
 さて、樋口ゼミで、豊里は何をどう学んだか。
 樋口健二先生は、ウイクペディアによると1937年生まれ。日本の報道写真家。四日市ぜんそくをはじめとする高度経済成長による日本中の公害や炭鉱、原子力発電所の放射能による犠牲者、被ばく労働者を取材、撮影。戦争の記憶の新しい時期の沖縄取材など、常に弱者や一般に生きる人々の側の歴史的真実の写真取材で知られている。2019年現在、日本よりも海外での評価が高い。日本写真芸術専門学校副校長、日本ジャーナリスト専門学校客員講師、世界核写真家ギルド会員。
 樋口先生は、学生にとって神のような存在だったであろう。その先生から、イノセントで感性の豊かな20歳の豊里は特に見込まれたのだろう、フォトジャーナリストへの道を厳しく徹底的に指導された。
 後に豊里は写真学生時代の撮影実習のことをブログに書く。(ついでながら蛇足を述べると、豊里は高校時代に、将来の希望は小説家になることだった、とも書いているから、これらブログやフェースブックへの毎日の膨大な投稿は、彼の日記であり、自己韜晦の記録であり、将来の書きもののためのメモでもあると思われる。)
 物語は、上野公園の不忍池側の酒盛りをしている男たちに記念写真をせがまれるところから始まる。豊里はテントで共同生活をしていたSさんたちの撮影を快く引き受け、「その写真をとにかく沢山プリントして鼻息荒く樋口ゼミに持ち込んだ。」
 「写真学校卒業後は沖縄へ帰郷を覚悟していた私は、沖縄と似ている下町の伝統文化を撮ることを年間テーマに決めていた。」が、「フニャケタ焼きの写真を見せたばかりに年間テーマを樋口先生に決められてしまう。」
 報道写真をとりなさい! ホームレスを撮りなさい!
 「大分凹んだ。」写真学校を辞めてしまおうとさえ考えたが、 「樋口先生に絞られた翌日、Sさんに改めて写真を贈呈しながらホームレスを撮りたいことを伝える。」そして、「卒業展には「僕の友達」として出品すると宣言する。
 俺は朝鮮人だから天皇陛下の弟だ、というアボさん。親分肌で弟分のアボさんをぶったたくSさん。また始まったと仲裁をするサカイさん。手にナイフを握り闘牛のように怒りくるう大柄な男。やくざの親分と機嫌のいいメカケさん。1日じゅう読書にふける男。眠り続ける男。寄り添う仲間たち。彼らのおおらかさ。アメ横の餌取り、怪しげな野菜スープ。・・・・上野公園の不忍池を舞台にした「三文オペラ」が展開して行くが、この先は、豊里の創作を待つことにしよう。
 当時、新聞奨学生で販売店に住み込んでいた豊里は、「お金のない私は駅前で配っているティッシュをお土産に」、現場に通う。
 「ホームレスの多くは精神的などうしょうもないくらいの孤独を抱えている。陽気な彼らにも、心の暗闇のようなものがどこかにあるようだった。私にもこの暗闇に捕われそうになった身に覚えがある。私は必死でその心の闇を凝視した。その孤独の闇に踏み込んで行けば行くほど発狂しそうな畏れから抜け出して行けなくなりそうだった・・・。」
 このとき、人間の深い闇にレンズを向けようとしていた豊里は、ルビコン河に膝まで入っていたように筆者には思われる。しかし彼は引き返す。急に写真ジャーナリストの気概が貌を出して、「野宿者たちの現状を改善するために、現状を知らせる必要性」を語るのだ。
 初めてのドキュメンタリーだった、という「僕の友だち」は、国境なき医師団主催の1999年フォトジャーナリスト賞の最終選考にノミネートされ、努力賞としてフィルム100本に一ヶ月の取材費として16万円を与えられた。さらに写真リアリズム集団主催の「視点」に10点が掲載され、僕の友達 ?社会という家の狭間で?」のタイトルで全国巡回展が行われた。
 その後まもなく友達のテントは、山狩り(保健所の野宿者のテント小屋の撤去作業)で跡形もなくなってしまう。豊里は失ってしまった舞台装置の前で、「その喪失感は私の撮影をクールにさせていった。この作品は、20〜22歳の若い私だったから撮らせてもらえたんじゃないかと思える。 今の私は、あの頃の私にとっての友だちとは違うくらい遠く遠くへ来てしまっている。」と豊里は最近のブログに書く。(つづく)

『豊里友行の沖縄写真特急便 コロナ元年より』
A4サイズ縦 カラー102ページ 沖縄書房 定価2000円+税
 
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