第14回  角川kousukeは氷の橋を渡る 写真集『HYPER JET'AIME』
'21 2月号
  誰もいない寒々としたプールに男が入っていく。何かに追われ、怯えているようだ。
 ……気持ちをざわめかせる表紙の写真。しかし、表紙を開けると……
 写真に写っている人はみな笑顔で読者を迎えてくれる。 明るく、屈託もなく、あどけないほどさりげない笑顔。
 もちろん、この笑顔はカメラに向けた笑顔だ。が、カメラマンと被写体の間に、このような笑顔関係が生じることは、まるで奇蹟ではないか、と筆者には思われた。
 たしかに、カウンターの向こうの男、買い物帰りの青年、仕事中のミキサー、窓から顔だけ出したあどけない少女、みな笑っている。みな均一にフレンドリーだが、筆者には、つかの間の親和を求めるせいいっぱいの努力かもしれない、という疑問が残るのだった。
 これは実は氷の微笑ではないか?
 氷のような孤独な魂が同じように孤独な魂へのご挨拶ーー。
 彼や彼女の孤独な魂は、カメラマンの中に住む孤独を敏感に見つけて、氷の微笑を送る。
 Je t`aime と。
 確かにこれは、巷間いわゆる〈愛〉と呼ばれる、ーーそう呼ぶしかない行為の描写である。
 角川kousukeを〈愛の写真家〉と位置づけるのは容易いことだ。
 愛という言葉が殿様の「この印籠が目に入らぬか」とばかりに絶対的な権威を振るうようになったのはいつからか?
 読みもの、映像、TV、SNS、壮大なドラマから猥雑バラエティまで、愛抜きでは一行1分とも成り立たない。
 今も昔も、愛の前には誰もがひれふす。
〈愛〉とはいったい何だろう? 今更、筆者がわざわざ述べ立てることでもないが、〈愛〉は欲望の別名のように思われる。親子の愛は勿論、金銭愛、権力愛、自愛その他、愛を欲 に置き換えるだけで一目瞭然だ。男女の愛は、性欲と所有欲に他ならない。
oooo
 人間は全ての愛に飢えている。渇愛こそが人間そのものではないだろうか?
 愛の正体が欲であり、そのまま人間のあるべき姿と肯定されたとき、カメラマンは、愛の先の何にカメラを向ければいいのか?
oooo
 角川は、被写体と孤独な笑顔を交わす。氷の橋は時に陽の光を受けて、虹となって輝くだろう。
 氷の橋を渡り、引き返し、また渡る。やめれば橋はなくなる。奇跡的に愛が温められれば氷の橋は融けてしまい、くら玄い孤独の底に落ちてしまうだろう。
「HYPER JET'AIME」は、十字架の半分が写り込んでいる少女の写真て終わる。少女の真っ直ぐないちずな視線は、カメラマンの胸を射抜く。が、角川がキリスト教的福音に何かを求めていないことは、もう少女が笑っていないことからも明確だ。
oooo
 タイトルの「HYPER JET'AIME」は、「Hyper Je t'aime」ではない。ただの愛ではなく、ジェット噴射の愛らしいのだ。
 角川は巻末にコメントを記す。(要略)

  2019年3月17日早朝
  「ハイパージュテーム」
  なる言葉が降りてきた。
  「ハイパーなアイラブユー」
  というわけではない。
  大いなる失意も過ちも、
  振り返りさえしない
  ハイパーな加速で
  ジュテームの飛沫を
  そこらじゅうに
  浴びせかける。
  (後略)

 さらに、この写真集を2026年の自分におくる。と書く。真っ直ぐな言葉ほど危険なものはない。どうやら当分はジェット噴射の愛が飛び散るようだ。
『HYPER JET'AIME』は、角川kousukeの用意周到な企みかも知れぬ。
 わずか36ページの写真集は2019年に刊行、このほど第2刷が発行された。新しい写真家の誕生である。

かくがわこうすけ
『HYPER JET'AIME』 ハイパー・ジュテーム
発行 LITTLE MAN BOOKS ¥800(税別)
 
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