第13回 死と写真の回廊(5) 志賀理江子-4 殯の空間 『人間の春Human Spring』
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『人間の春』の写真には死が写っていない。
あらゆる写真には、スペクタリウム、すなわち死者の幻影がうつっている、という『明るい部屋』のロラン・バルト氏に従えば、志賀さんの写真は写真とはいえないことになる。
最初から死が写っていなかったわけではない。志賀さんは写真に映り込んだ死を追い出すことに賭けて、技術と努力をつぎ込んだ。必死に大きな穴を掘り、写真を焼いたり、レイヤーをかけたり、相当の力業だ。結果はB級ホラーといわれたが、C級でもD級でも、写真が死を内包していることは許せなかった。「写真は生、というのは唯一いえる確かなこと」なのだから。
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そして振り向けば、熱に冒されたような赤ら顔の男がこちらを見ている。すでに2年前、『ブラインドデート』で見かけた男だ。何かを訴えるようでもなく、何を見ているのかわからない視線。
彼はゴーストか? それとも彼が生か?
「毎年春、桜が芽吹く数日前に、まったく別人になる人」で、彼こそが「永遠の現在」らしい。
「永遠の現在」とは過去と未来の堺がほとんど無い躁状態の人が持っている感覚=てんかん症の発作のことだと説明がある。ちなみに、人間の心理的時間感覚は、祭りの前が統合失調症、祭りのあとが躁鬱症的、祭りの最中がてんかん的、だそうである。(臨床哲学・木村敏氏)。
赤い顔の男は、まがまがしい悪夢の映像の、それぞれ背中合わせにいる。図録の写真集では必ず左ページにいて、読者の目を左右に泳がせる。
雪国の或る日、春が、奇蹟のように現れるとき、赤い顔の男が顔を出す。それは喪が明けたハレの日のしらせだろうか? 喪は魂の蘇生を待つ意味もあるのだが――。
「永遠の現在」の青年は、最も多くのレイヤーを重ねて作られた。その結果、おそらくその視線は曖昧になって、弱められた。
壁の椅子に座り、首を回して見渡せば、地獄のB級ホラー的映像を背負った幾人もの、
――あの深い眼差しの『ブラインドデート』の少女がいた。
――一瞬、波にのまれていく幼な友だちの広子ちゃんを見る『美しい顔』の少女がだぶって、消えた――。(馬鹿げた妄想と叱られたら詫びるしかない。)
『美しい顔』の少女は、下半身に布を巻きつけ半分だけ残った顔に美しく化粧された母をあとに、殯宮から日常へ出て行く。「永遠の昨日」と、北条裕子さんがいう。
――『人間の春』の観客は「永遠の現在」の彼に見送られて、殯宮を後にする。
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『人間の春Humsn Spring』は、ひたすら〈地獄を見て〉、それを記録するドキュメンタリーだった。
それは、3日後に被災地へ入ったノンフィクション・ライター石井光太氏の『遺体』の〈記録〉の仕事に近いように思われる。
インスタレーションの最大の成功例はお化け屋敷だというが、志賀さんは次のステージでも、『リリー』『カナリヤ』以来の方法と技術を使い続けるのだろうか。
清水穣氏がエールをおくる。
「志賀理江子は―ストレートであろうとピクトリアルであろうと―写真家ではなく、イメージの演出家である。(中略)ワンパターンのエフェクトに囚われたままでいる必要はないはずだ。そろそろ意識的に卒業しても良いのではないか。」(清水穣「写真の意味、あるいはB級ホラーの演出」)
卒業とは、「二度と絶対に嫌だけど、でも逆にあの時間が体から消えてしまうのが怖いのです。」と自身が語る、あの津波の非日常からの卒業のことだろう。
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『ブラインドデート』の少女が見ていたものは、志賀さんでもカメラでもなく、目に見えない現実だった。
志賀さんはとっくに気づいている。死を内包しない生がないように、死を追い出した「写真は生」は無惨な形骸だと言うことを。
そして、あの恋人の背中を抱くバイクの少女たちも、志賀さん自身も、日常の津波の被災者だということを。
*丹羽晴美さんには『人間の春』開催中にお話しをお聞きしました。
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