第8回 メカは表現を変えるか? (2) 決定的瞬間 その2 ブレッソンの呪縛を解く
9月号
図録「木村伊兵衛とアンリ・カルチェ・ブレッソン」(東京都写真美術館刊)の表紙と裏表紙。それぞれが相手を撮影している。

  日本の写真の先達で大御所だった木村伊兵衛さんは、家を出る前に、必ず、ニコンの50oレンズを、焦点距離10フイートにセットした。街を歩いていて眼に止まったシーンを瞬時にスナップするとき、ちょうど人物の全身が入る距離だからである。
 フランスの大御所、ブレッソン氏は、街を歩きながら、肩から提げているライカのフォーカスリングの突起部に常に指をかけていて、狙ったシーンとの距離を合わせていた。
 いずれもスナップの名手、ちょっとマネの出来ない居合抜きの神業の持ち主であった。
 フイルム時代、オートフォーカスや自動露光のメカニズムが未開発の時代の話である。いまでは、この神業をわれわれ普通のカメラマンも当たり前に手に入れ、「フォーカスと露光時間」など、ほとんど意識しないで撮影が出来るのである。
 アンリ・カルチェ・ブレッソン(1908−2004)は、はじめ画家として出発し写真家に転向した。1952年、写真集『過ぎ去る映像』を出版したが、英語版のタイトルを、アメリカの出版社が『決定的瞬間』とネーミングした。
 ブレッソンを日本に紹介したのは、三木淳氏と木村さんである。木村さんは、ブレッソンの撮ったアンリ・マチスの写真を見て、「私はブレッソンに私淑する」と言った。当時すでに日本の写真界で大きな存在だった木村さんが、8才年下のフランス人カメラマンに、私淑つまり「その人を師とし、その写真を模範として学ぶ」と宣言したのだ。
 木村さんは、「彼のいう決定的瞬間とは、シャッターを切る瞬間に一切のものが決定していなければならないというのである」と紹介している。
 ところで、〈ブレッソンの構図〉というものがアマチュア向けの写真講座の定番となっていて、〈神霊の壺〉みたいに伝播を広げているらしい。
 それはブレッソンの写真の上に線を引き、黄金分割だの、幾何学的構図だのと説明し、写真にとって構図がいかに大切かを強調する。
 ブレッソン自身も、「黄金分割を探り当てる唯一のコンパスは写真家の目だ。」といっている。
 どうやらブレッソンの頭には、常に〈構図〉が先にあったようだ。彼は元画家だったから、カンバスの上で、いつも黄金比を探っていたのだろう。
 ビルの谷間の階段の下を自転車が走り抜ける瞬間を撮った有名な写真がある。黄金比の線引きによく使われる写真である。ブレッソンは、ビルの谷間に狙いをつけ、自転車が入れば完成する黄金比の構図を待っていたのだろうか。いや、そうではあるまい、歩きながら自転車つき黄金分割を見かけるやいなや、指をかけていたカメラを腰からさっと抜いて、西部劇のガンマンよろしくシュートした。ブレッソンには〈過ぎ去ったイメージを撮るカメラ〉など必要なかった。
 しかし、ここで疑問がある。木村さんの言う「一切のものが決定する決定的瞬間」とは電光石火の黄金比の構図のことだったか?
 1954年、ニコンの招待で木村さんはヨーロッパ旅行へ出かけた。ブレッソンはロワール河畔の別荘へ招いた。別荘はシャトーだった。
 このとき、通訳として同行した高田美さんによると、木村さんと仲がよかったのはブレッソンではなく、ドアノーだった。
 ドアノーと木村さんは、気のあう相手だったらしく、2回目のフランス行きの時も、木村さんはドアノーの案内でパリ祭に沸くパリ伸した街を歩き、いっしょに写真を撮っている。
 ロベール・ドアノー(1912−1994)は「イメージの釣り人」といわれるスナップの名人で、街の中から人間味あふれる情景を巧みに釣り上げる。
 一番有名な写真は、街角でキスをする若い男女を撮った「パリ市役所前のキス」である。完璧なスナップの名作といわれ、現在も東京都写真美術館の外壁を大きく飾っている。
 2005年、パリでおこわれたオークションに、ドアノーのサイン入りヴィンテージ・プリントが出品され、破格の2100万円で落札された。出品者はこの写真に写っている本人、女優のフランソワ・ボネさんだった。
 彼女は、撮影の時のことをあかした。50年前のある日、恋人の青年と街角でキスをしていたとき、それを見かけたドアノーに頼まれて、再現シーンを演じたのだ、と。ヴィンテージ・プリントはそのあとでお礼にもらったものだった。
 スナップショットだと思っていたものが、実は半分演出だった。半世紀の間、われわれは騙されていたことになる。ドアノーにも、別の意味で〈過去を撮るカメラ〉は必要なかった。
 ドアノー式スーパースナップの勝利宣言を聞く思いがする。はっきり言えるのは、ビルの谷間で自転車か何かが来るのを待っているのとは、動機も感性も全く違うということだ。
 木村さんはフランスから帰って、「ドアノーとアッジェに先を越された」と述懐した。木村さんがアッジェを知ったのはいつだったかはわからない。
 ジャン・ウジェーヌ・アッジェ(1857-1927)は、馬車の修理屋の家に生まれ、孤児になって、客船のボーイをしたあと役者になり、41歳で画家に、そして、古いパリを写真で撮って、画家たちに資料として売っていた。
 のちに、パリ市から古いパリの記録を依頼され、アッジェは人のいない早朝に、第3共和国時代の建築物を大判カメラで撮った。これらの写真は、貴重な記録として珍重されると共に、シュールレアリスティックなアートとして認められた。暗く沈んだ建物の門は幻想世界への入り口のようである。
 ここで思い出すのは、木村さんの「板塀」である。古く木目があらわになった板塀の前を、通りかかった馬の後脚と尻尾だけが写っている写真。木村さんの最高傑作だと、個人的に思っている。
「300年続いた大地主の戦後の位置を狙って見たかった。」とは作者の言葉だが、撮影された1954年ごろの社会的関心よりも、塀の中によどんでいる鬱蒼とした過去が――アッジェの門を入った妖気が板塀の奥から立ち上がってくるように、見るものを捉える。
 コンタクトを見ると、馬のいない塀とポストと樹だけの写真がたくさん写っている。日を変えて、3度、この塀の前に通ったことを自身の撮影記に書いている。
 木村さんはこのときすでに、(ブレッソンに私淑したが、おそらくアッジェを知る前に)、自分の柔らかい感性と情緒豊かな作風の先の、シュールレアリスティックな表現を手にしていた。
 実は木村さんは、決してブレッソンに先を越されたとは思っていなかったのではないか。〈私淑〉は、多感な作家の模索の課程に過ぎなかったのかも知れない。
 作家の頭の中の構図を現実に見つける「決定的瞬間」など、現実は都合良く迎えてくれないことを、木村さんは感覚的に知っていた。
 既成の黄金比を、さりげなく、粋にぶちこわすような写真を撮るのが木村さんだったと思う。
 
 
写真中 東京都写真美術館の写真壁画 ロベール・ドアノー「パリ市庁舎前のキス」
写真下 「定本木村伊兵衛」(朝日新聞社刊)の箱の「板塀」

 
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