第6回 メカは表現を変えるか?(1) 3脚はいらない 大三元ズーム
7月号
カメラグランプリ2017「レンズ大賞」に選ばれた オリンパス M.ZUIKO DIGITAL 12-100ミリ F4 ズームレンズ と「カメラ大賞」のOM-D E-M1 MarkU

  あれはいつのことだったろう、アンゼニューがきたのは。
 フランス製の10倍ズームレンズ。決してシャープとは言えない、少し甘い描写がよかった。
 アリフレックス16ミリカメラによく似合った。 12ミリから120ミリ、F2.2。広角から望遠まで明るさが変わらない。カメラマンにとってこれは如意棒のような存在だった、特に、写真界から突然やってきたカメラマンにとっては。
 「人間蒸発」の撮影に入ったころ、ぼくは撮影カメラやレンズのことも、フイルムの入れ方さえ分からなかった。オリコンという名の、古い、見たこともないカメラを与えられて、途方に暮れた。
 助手のなり手がなかった。写真の方からいきなりやってきたカメラマンだから、どうやってつきあうか、断って当然だろう。
 レンズの交換さえ容易ではなかった。
 ある大きなシーンの撮影の前に、アリフレックスとアンゼニューレンズが届いたとき、ぼくはファインダーを覗いて、うっとりしたのだった。
 レンズが明るく、その明るさが広角から望遠まですべての写角で変わらない、ということが、カメラマンにとってどれほど素敵なことなのか、ここで説明するのは極めて難しい。特に、映像の表現には厳しいけれどカメラ・メカには興味が薄いと思われる本紙の読者には無謀の企みかも知れない。が、試みてみる。
 まず写角について。自分を中心に、両手をほぼ90度に広げた範囲が一般的な広角だ。情景、つまり社会的情報が多く写し込まれる。人物撮影では、彼がどんな状況にあるか、の舞台装置となる。
 標準角は、ほぼ両手を肩幅に伸ばした範囲だ。広角では情景の1部だった人物は全身像として捉えられ、個人的情報が強調される。
若いか年配か、姿勢がいいか猫背か。手にしているのは杖かゴルフクラブかが判然とする。  両手をもう少し狭めていくと、情況は切り離されて個人のテイストが示される。名画の肖像画に圧倒的に多い半身像である。着ているものは木綿かシルクか、胸のネクタイやブローチはブランド物か、勲章をいくつ下げているか・・・。
 両手を自分の顔の幅に縮めると、それは望遠角で、クローズアップ。人物なら画面は顔だけになる。ここでは全身像で写ったゴルフクラブも、半身像を飾った勲章もすべてカットアウトされる。富や権力、肩書きなど、いわば虚飾の類はフレームの外になり、かわりに肌のつや、荒れ具合はもちろん、目は輝いているか、濁っているか、口や鼻は曲がっていないか。眉に刀傷があれば歴然と写し込まれる。
 このように広角と望遠では表現の内容がすっかり変わることを分かっていただけただろうか。
 カメラに入ってくる光の量はF値で示される。F2など値が小さいのは窓をいっぱいに開けた状態で、〈絞り)というカーテンを絞めるにつれ、F8、F16などF値が上がり暗くなる。F値が上がると被写界深度が深くなって、近くから遠くまでピントが合うようになる。近眼の人が目を細めて見るのは、絞り効果の援用だ。
 主題を際立たせようとするときは、逆に絞りを開けて、被写界深度を浅くする。主題だけにピントが合い、外部情報というヴィジュアルノイズはボケとなって排除される。
 ロジェ・ヴァデム監督の映画に見事なショットがある。『獲物の分け前』のラスト近く、タイル張りの部屋に、雨に濡れたジェーン・フォンダが入ってくる。そのバストショット。
 カメラは静かにトラックバック(後退)しながら、愛も金も失った失意のジェーンをズームアップしていく。画面のなかの彼女の大きさは変わらないまま、背景だけが狭められ、ぼけていく。まるで観客に彼女をぐいと突き出してくる印象だ。
 単にカメラを後退させると、ジェーンの姿は小さくなり、背景つまり環境が強く出てくる。単にズームアップすれば、バストサイズからクローズアップになるだけで、フレームの中から何かを選ぶようなもの探しのショットになってしまう。
 ズームアップとトラックバックを併用して、彼女のサイズを変えずに、情況を次第に遠ざけ、ジェーンの内面を濃く映し出すことに成功している。
 このショットが35ミリ用のアンジェニューだったかどうかは知らない。しかし、いまさらのように、写真カメラにもこんなズームがあったらどんなにいいだろうとつくづく思ったのだった。
 フイルム時代から写真家はズームレンズを嫌い、単焦点レンズを交換しながら撮った。交換が面倒だから2台も3台もカメラをぶら下げた人はいまでもいる。
 レンズの方にも問題があった。単焦点レンズにくらべて描写が落ちたり、良質のものでもせいぜい3〜5倍のズームで、広角系、標準系、望遠系に別れていた。しかもF2.8〜6.3などとF値が変わり、望遠側ほど暗くなって、ぼけにくくなるレンズが多かった。
 先ごろ全国のカメラ記者などが選ぶ「カメラグランプリ2017」が発表され、「レンズ大賞」にオリンパスM.ズイコーEDズームレンズ12〜100ミリが選ばれた。
 8倍ズームである。12ミリから100ミリ。(35ミリフルサイズ換算で24〜200ミリ)。F値は4で変わらない。レンズの長さは87ミリ、重さは410グラムと驚くほど小さく軽い。フォーサーズという比較的受光部の小さいカメラ用だから出来たのだろうが、久しく待たれていたレンズだ。
 広角、標準、望遠ズームを1本にまとめたものを大三元ズームというそうだが、満願3つ、役満レンズである。
 先月、写真集の撮影にパリとヴェネツィアへ出かけたが、ほとんどこのレンズだけで、ほかに持参した4本の単焦点レンズは、サブカメラと共にあまり出番がなかった。  理由は、もう一つある。6.5段分の手ぶれ補正の機能があり、手持ちで1秒でもぶれない。つまり3脚がいらない。
 パリでもヴェネツィアでも街中で3脚を使うためには当局の許可が必要だから、手ぶれ補正のメカニズムは文字通り規制の足かせから解放してくれる。
 長く記録映画を撮り続け、いまも現役の広瀬充男さんによると、アンジェニューはレンタル屋さんにももうないそうだけれど、この大三元レンズは、写真の表現を変えていく可能性を秘めている。
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mail ishiguro kenji