第1回 2017写真大予言
2月号
  「写真愛」の第1回となる原稿を、なかなか書き始めることが出来なかった。図書新聞という書物の森の中、文字どうり林立する書評の巨木に囲まれて立ち往生している自分が見えた。名うてのシューターが獲物を選び照準を合わせ、引き金を引く。批評はいかにも撮影の行為に似ている。しかし、写真の世界では久しく見られないシーンだ。森は深く暗い。木漏れ日を探して歩くしかない。
 毎日新聞の書評欄の「2016この3冊」という企画で、識者たちがそれぞれの3冊を挙げているが、写真や映像関係は1冊もない。本紙でも、写真集がとりあげられることは非常に少ない。写真は標的になっていないのだ。
 日本の写真は、「アサヒカメラ」と「日本カメラ」の2つの〈カメラ雑誌〉が牽引してきた、といっても言い過ぎではないだろう。
スマホにカメラがつくまでは、と注釈が必要かも知れないが、特に昨年90周年を迎えた「アサヒカメラ」は、日本の写真の歴史をそのまま抱えて来たことは間違いない。ほかに「写真サロン」「フォトアート」「カメラ毎日」など多数のカメラ雑誌が競ったが、1900年代までにほとんど撤退している。
「アサヒカメラ」の創刊は1926年4月(大正15年)だ。この年、3月には蒋介石が反共クーデターを起こす。8月、NHK発足、12月25日、大正天皇崩御。1度光文とされた年号が昭和に変わった。
 1942年(昭和17年)情報局の指図で休刊。
 復刊は戦後の1849年10月号。下山事件、松川事件など不可解な事件が相ついだ。レッドパージの嵐が吹き荒れる中、湯川博士のノーベル賞受賞。美空ひばりのデビューもあった。
 編集長・津村秀夫による「復刊のことば」は、「写真芸術は常にアマチュアによってこそ新生面を拓き、常にこの世界に清風を導き入れつつあったと信じます。」であった。
 翌1950年、警察予備隊発足。6月朝鮮戦争勃発。騒然とした時代を背景に、「日本カメラ」が月刊誌として出発した。
 この年、「カメラ」誌の月例コンテストの選者となった土門拳が、「今日ただ今に生きる人間としての怒りや喜びや悲しみ」を写すリアリズム写真を提唱し、「カメラとモチーフの直結」「絶対非演出の絶対スナップ」を唱えた。これに対し、亀倉雄策、名取洋之助、濱谷浩らが「クソリアリズム」「乞食写真」などと反論。54年ごろまで応酬が続いた。
 日本の100年の写真の歴史の中で、表現をめぐる際だった論争はこれが最初だったかも知れない。そして、表現の変革を迫る提言は、1968年の「思想のための挑戦的資料」をサブタイトルとしたプロヴォーグの登場を待たなければならない。
 その前も後も、日本の写真はアマチュアが〈新生面を拓いて〉きたのだろうか。
 「アサヒカメラ」は今年1月号で、「写真とカメラをめぐるニッポンの論点」という特集を組んでいる。「日本カメラ」の特集は、「カメラ&写真大予言スペシャル」である。
 いずれも、レンズ無しの夢のカメラとか、正月らしい楽しい話題の提供は例年どうりだが、アサヒカメラは、「表現」についても踏み込んでいる。新製品紹介やメカニズム解説のあれこれに終始してきた〈カメラ雑誌〉としては珍しいことだ。
 日本の〈カメラ雑誌〉は、カメラメーカー・写真産業界との蜜月関係で成り立ってきた。カメラメーカーはカメラが作り出す「写真作品」の発表の舞台としての雑誌を、同時に商品宣伝の場として活用してきた。
 一方、写真作品はカメラ無しでは作ることが出来ず、メカニズムの進化が作品の進化、深化にダイレクトに影響する。
〈写真雑誌〉が〈カメラ雑誌〉と通称される所以だ。
 アサヒカメラの佐々木広人編集長は、BS日テレの「久米書店」に出演したとき、専門性の高いカメラ雑誌をどのような編集方針で作っているのか、と問われて、「プロの作品をグラビアで味わい、作品の極意を特集で学び、カメラの最新情報を知る」。このコンセプトは一貫している、と答えている。
 しかし、1980年代に30万部といわれた写真雑誌は、半分以下に落ち込んだ。  写真の発表の場はwebへ移った。SNSのサイト「東京カメラ部」は、年間240万の投稿があり、閲覧者は3億に達するという。
 「日本カメラ」の大予言は、写真を発表する人が写真を見る人を上回ったのは3年前からだ。と書く。アマチュアが牽引してきた写真は、すでに国民的ホビーとなっていたのだ。  いま、写真のオートフォーカスの精度は上がったが、照準をどこに合わせるのか、標的を探して、背丈を超す雑草の生い繁る幻野に立ちつくすのみだ。
 アサヒカメラ編集長は、最近号の編集後記で、われわれは〈総合写真雑誌〉としてフォトジャーナルの看板を掲げていく、と書く。
 新しい写真の時代への宣言、と読んだ。

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